さて、主イエスを見て下さい。主イエスは常にユダヤ人と反対の立場に立っており、ユダヤ人は主イエスと反対の立場に立っています。この対立は外面的なものでは全くなく、内側深くのものです。彼は礼拝しました。しかし、全く神に明け渡された生活によって礼拝しました。しかし、それ以上です。彼は神の性質そのものによって支配されている生活によって礼拝したのです。神は聖であり、神は義です。神には混合が全くありません。神は純粋です。神は光です。神の中に暗闇は全くありません。暗闇、もや、透明性の欠如の疑いはありませんし、それを示唆するものもありません。神が過去にいかなる方だったのか、そして今いかなる方なのかが、主イエスの礼拝を支配していました。つまり、神が過去にいかなる方だったのか、そして今いかなる方なのかを理解して、神に似つかわしくないものは何でも全て永遠に放棄しない限り、神を真理の中で礼拝することは不可能であることを、彼は分かっておられたのです。神を礼拝するために神の土台の上に来るには、そこに神に似つかわしくないものや、神に反するものを持ち込むことはできませんでした。真理の中で神を礼拝しなければなりません。偽りであるもの、嘘であるもの、矛盾であるもの、真実でなく非実際的な人間性を信じ込ませるものがたくさんあります。真の礼拝者になろうとするなら、そうしたものとすべて手を切らなければなりません。そして、ここでは神を弄ぶこと、神を欺くことは不可能であること、そのようなものが自分にある限り、神と交わることは不可能であることを、認めなければなりません。神がいかなる方なのかという思慮によって、あなたは完全に支配されることになります。これ以外のことをするのは、極めて敏感な人がいる所にやって来て、その敏感な人を苦しめるようなことを言ったり行ったりするようなものです。もしあなたが音楽家、音楽の才能のある人なら――あなたが演奏したことがあるかどうかということではありません!――あなたに音楽の才能があり、高度な鋭い音感があったとして、もし誰かがあなたの居る所にやって来て、絶えず不調和音をかき鳴らし、打ち叩いたとするなら、それがどんな苦しみか分かるでしょう。あなたは赤くなったり、青くなったりするでしょう。音にとても敏感な人を知っていて、あなたに特別な音楽の才能がない場合、もしあなたに良識があるなら、あなたはそのような人の前で演奏しようとは決してしないでしょう。私はある人のことを覚えています。その人はかなり上手なバイオリンの奏者で、バイオリンがとても上手な人の演奏を聴きに行きました。その人は後で私のところにやって来て、「私はバイオリンから足を洗うつもりです。二度と演奏しません。あの人が私の演奏を聴いたら、頭に来てしまうでしょうから!」と言いました。私の言わんとしていることがお分かりでしょう。要するに、主イエスはこのように神と同調しておられたのであり、彼が重んじられたのは神の性質だったのです。神は礼拝者に何を要求されるのでしょう?何らかの形式でしょうか?神を礼拝することは、罪に反対する証しとして放棄された命によりました。これを覚えておいて下さい!主イエスの死には様々な面がありますが、これはとても決定的な面です。主イエスの死は、罪に反対する証しとして御自身の命を放棄することだったのです。


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