カインとアベルが示していること

 キリストにある命の法則のこれらの働きの第二に移ることにします。これは旧約聖書もしくは創世記の七人の代表者の二人目に示されています。いま私たちが目にするのはカインとアベルです。ここでは、自らを対比的・対立的に示す命の法則・原則が見えます。命のある所では――私が話しているのは通常の人の命ではなく、神の命、霊の命、キリストであるところの独特で特別な命であることはお分かりでしょう。命はキリストであり、この命がある所には、必然的にこの敵意が生じます。これは常にそうであり、この命に反することをしない限り、この衝突を避けることも抑えることもできません。神の命がどこかに見つかるやいなや、敵意が現れて、戦いが始まります。

 ですから、私たちはここにこの命を見いだします。いま述べているのは予型の領域でのことです。アベルの道に命が見つかり、カインの道に死が見つかりました。私たちはその違いを調べなければなりません。その違いとは何でしょう?カインのことをとても注意深く眺めることにしましょう。

 私たちはカインについて皮相的な見方をして、極めて正当的で正しくはあるものの不適切な結論に至るおそれがあります。カインに対して大いに公平で、大いに厳密になりましょう。カインは神を無視したのではありませんし、神に外面的に敵対している者でもありませんでした。カインは神を認めていました。神を礼拝の対象として認めていました。カインは礼拝行為として、自分の知る最上の物、自分が持っている最上の物を神に持って来ました。私が言う「最上」とは、彼が知っていた最上のことであり、彼が知り得たはずの最上のことではありません。この領域においては、カインが持って来たものは良い高価なものでした。これを認めて、このように述べない限り、私たちは死と命の違いを理解する道の上にはありません。いわゆる死の道を黒色や暗色で描写して、「死の道は神に対する極めて凶悪な怒りという特徴を必ず帯びている」と考えても仕方ありません。「死の道に入るには、公然と積極的に神に敵対すること、神を無視すること、神を実際に認めることを拒否することが必要である」と思ってはなりません。死の道に入るのに、これらのことをする必要はありません。死の道はそれよりもさらに深いものであり、それよりも遥かに深いものです。先に進むにつれて、これがそうであることが分かるでしょう。

 カインは自分の天然の命の成果を持ってきたことがわかります。これはそれに尽きます。こう述べる時、もしあなたがこれを理解しているなら、あなたは事の核心に近づいたのです。

 アベルの場合、その姿勢は「生きるには死ななければならない」というものでした。神に受け入れてもらえるものを私たちは何も持っていません。神に拒絶される命しかありません。アベルは罪を認め、罪深い魂は注ぎ出されて死に至らなければならないこと、その魂、その働きや成果を神に献げてはならないことを見ました。カインの側では、魂が自分自身の善とおぼしきものの立場に基づいて受け入れてもらおうとしているのが分かります。


オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館
オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館へ

コメント
トラックバック
トラックバックURL
コメントフォーム
管理者にだけ表示を許可する
プロフィール
カレンダー
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
全記事表示リンク
検索フォーム
個人のブログに関するリンク集
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

電子書籍
Glorious Secret
ジェシー・ペン-ルイス
「栄光の奥義」


The Cross of Christ
アンドリュー・マーレー
「キリストの十字架」


ランキングサイト
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ

人気ブログランキングへ ブログランキング

ブログのまどランキングへ ブログ王へ

ブログランキング【くつろぐ】

QRコード
QR
カウンター

Page Top
Powered by FC2 Blog | | Template Design by スタンダード・デザインラボ