サタンの人への接近

 第一に、誘惑者の姿と誘惑があります。創世記三章から、エバとアダムがどこでなぜ堕落したのかが分かります。見た目はとても単純です。おそらく、その主な力と狡猾さはそこにあるのでしょう。その機会は見た目には良いものでした。サタンの誘惑と誘いは通常、見た目は良くて望ましい姿で示されます。これを常に覚えておいて下さい。サタンがこれまである人を、堕落というおぞましい結末をその人に知らせることによって誘惑したり誘ったりしたことがあるのかどうか、私には疑問です。サタンは常にその全く逆の道を辿って、良くて望ましいもののように人の判断に訴える形で誘って誘惑します。問題は、人がいつもその事柄しか見ないことです。キリストはサタンを見ました。提案の形で誘惑が臨み、それが何か良い望ましいものとして示された時、キリストはそれを見抜いてその背後にあるものを見、「私の後に引き下がれ、サタン」と言いました。さて、強調する必要も、あなたたちに述べる必要もほとんどないと思うのですが、サタンがあなたを誤導し、欺き、誘惑し、命の道から連れ去ろうとする時はいつも、彼は相変わらず良い提案、あなた自身の人間的判断には良く思われるものを持ち出すことによってそれを行います。私たちが自分の道を行きたい時はつねに、私たちにはそのための非常に良い口実があるものですが、これにはとても明確な意義深い意味合いがあります。つまり、私たちは常に何か良いものを持ち出して、それでバランスを取っているのです。私は言いますが、これは意義深いことです。いまだかつて一人も、悪くなる良い口実無しに悪くなったためしはありません。ただし、良い口実と言っても、それは人間的観点から見たものです。常に議論が続いて、それですべて逸れてしまうのです。

 さて、この誘惑は第一に欲深い器官、獲得欲に対してなされたことを、私たちは知っています。この場合は、知識を獲得することでした。さて、愛する人よ、知ること自体は悪ではありません。しかし、もちろん、人はあることを知ったり、あるいはある種の知識を持たない方が良かったでしょう。しかし、この問題の要点は人が獲得した知識の種類であるとは私は思いません。この誘惑は知識欲から始まりました。その訴えは獲得欲、所有欲に対するものでした。ここでは、それは知識を得たいという欲でした。しかし、知識そのものは悪ではありませんが、他方、この場合、そこには隠れた要素がありました。この出来事の背後にあったのは、所有したいという動機でした。つまり、もはや神に依り頼んだり従ったりしなくても済むように所有することだったのです。目的は地位の変更であり、別の地位を得ることでした。これがこの誘惑の背後にあったものです。それは神に対する人の依頼心、神に対する人の従順に、直接一撃を加えるものでした。あるいは別の言い方をすると、それは神の地位に直接一撃を加えるものだったのです。


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