しばらくの間、ヘブル一一章に記録されている実例のいくつかを調べることにしよう。この章は聖書の偉大なる信仰の章である。

 与えられている最初の事例は、良い報告を受けた長老たちの中の一人についてである。出エジプトの物語を見ると、彼らの報告に関して信仰の言葉についての言及がまったく無いことに気づく。彼らは自分たちの行いによって自分たちの信仰を示したのである、とパウロは告げている。

 われわれは次にアベルの信仰について読む。アベルはカインの供え物よりもまさったいけにえを神に献げた。しかし創世記四章に行ってその出来事について読むと、信仰の言葉についてはまったく述べられていないことがわかる。パウロは再び「自分のいけにえを主に献げた時、アベルには信仰があったのである」と告げる。彼は自分の行いによって信仰を示したのである。カインが献げた供え物は主の不興を被ったが、その供え物は間違いなくこの罪深い人の理屈の所産だった。アベルは自分の行いによって自分の信仰を証明した。しかし、旧約聖書の記事では、そのような信仰に関して何の言及もない。

 ヘブル一一・五を読むと、信仰によってエノクは死を見ることがないよう移された。しかし、エノクの生涯に関するこのとても短い記事を読むと、彼に関して信仰の言葉は全く述べられていないことがわかる。われわれ全員が知っているように、彼は黙示録的な数々の裁きの前に移される聖徒たちの型である。彼は不法と邪悪の時代の中に生きていた。彼は不信仰な時の中に生きていた。いかなる環境や状況にもかかわらず、彼は神と共に歩んだ、と聖書は告げている。ある日、彼は歩きに出かけて、戻るのを忘れてしまった。聖書は告げる、「彼はいなくなった。神が彼を取られたからである」と。パウロは、ヘブル人への彼の手紙の中で、「彼の行いは信仰だった」と強調して告げる。それを信仰たらしめたのは、彼が信じていることだけではなかった。信念が活動によって力づけられ、成長して信仰になったのである。信仰は自らを表わさなければならない――実体がなければならない――行動の中になければならない。

 さて、ノアについて見ることにする。彼は旧約聖書の偉人たちの見事な群れの中の一人である。パウロは過去の歴史の中から、信仰の一つの例として、彼を当時のヘブル人たちの目の前に示す。箱舟の建造と洪水の到来についての記事(創六~九を見よ)を読むと、信仰についての言及はまったく見つからない。主が昔のノアに述べておられるのは、「なぜなら、この世代の中で、私はあなたが私の前に義しいのを見たからである」ということである。友人たちの冷やかしや理性の使徒たちの批判にもかかわらず、彼は主の御言葉に従順に前進して、自分の箱舟を建造した。数千年後、パウロはヘブル人たちに書き送って、「それは信仰だった」と告げた。

 そして彼は続けて一つのレースについて思い起させる。過去の世代の父祖たちの信仰に対する疑いと恐れの只中で、そのレースは霧で覆われて見失われていた。彼は彼らに告げる。パウロの時代のヘブル人たちは神の諸々の約束の受け取り手になったが、この人々はそのように約束を受け取る前でも信仰を行使したのである、と。


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