いかなる権威によって、弟子たちはイエスの昇天後、癒したのか?悪魔や病と接触した時に彼らが持っていた信仰の種類に、あなたはこれまで注意したことがあるだろうか?宮の美しの門にいた人を彼らが見た時、彼らは悲しんで叫び始めなかった。また、別の場所にその人を連れて行って、神が彼を憐れんでその体を癒して下さるよう執り成すこともしなかった。私が思うに、この問題に関して彼らは主の御心を知っているかのように行動したのである。私が思うに、彼らは上の部屋という発電所の中で神と直接接触したばかりの人々のように行動したのである。神には病を征する力があることを、彼らは確信していたのである。

 それは執り成しではなかった。信仰だった。それは自分たちの力によってなされた、と彼らは主張しなかった。彼らは確かに、「イエスがすでにそれを成して下さった」と信じる人々のように行動した。すべての名に優る御名を用いて、彼らはただ「起き上がって歩きなさい」とその人に命じた。その通りにその人は行った。

 簡単な言葉で述べると、私がこの出来事について読む時に受ける感銘は――イエスの昇天後になされた神癒のどの出来事について読むときにも、この同じ真理に感銘を受けるのだが――癒しは贖いの中に含まれることを信じ、知っているかのように彼らは行動した、ということである。

 さて、これはみな、信仰といかなる関係があるのか?これは信仰という主題と大いに関係がある。なぜなら、体の癒しを受け取るにあたって信仰が働く時、この真理の上に信仰は立たなければならないからである。

 嘆願の祈りと信仰の勝利の叫びとの間には大きな違いがある。疑いなく、一方は他方につながる。必要に迫られて、拠って立つべき約束に気づかずに、あなたは嘆願するかもしれない。しかし、信仰はその根拠を知り、手を伸ばして受け取る。

 私の友よ、あなたの体は病んでいるだろうか?神だけが与えられる解放をあなたは必要としているだろうか?神を信じる信仰を持て。その御言葉を信じる信仰を持て。信仰は勝利である!

 思い出せ、信仰は聞くことにより、聞くことは神の御言葉による。霊感された御言葉のページをめくる時、啓示された御旨という回廊を、御霊と手を携えて歩いて行け。神の御言葉を読むことほど、不信仰という敵を速やかに追い出せる力は天の下に何もない。ピリポは宦官の馬車の中で、宦官が御言葉を理解するのを助けた。このピリポのように、聖霊は常に御言葉と同行して、それを読む人の心にそれを解き明かして下さる。聖書を読む時、御言葉があなたの中で成長する――諸々の約束が光彩を放つ――そしてあなたは「これは私のものだ」と叫び出す。


オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館
オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館へ

コメント
トラックバック
トラックバックURL
コメントフォーム
管理者にだけ表示を許可する
プロフィール
カレンダー
10 | 2017/11 | 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
全記事表示リンク
検索フォーム
個人のブログに関するリンク集
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

電子書籍
Glorious Secret
ジェシー・ペン-ルイス
「栄光の奥義」


The Cross of Christ
アンドリュー・マーレー
「キリストの十字架」


ランキングサイト
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ

人気ブログランキングへ ブログランキング

ブログのまどランキングへ ブログ王へ

ブログランキング【くつろぐ】

QRコード
QR
カウンター

Page Top
Powered by FC2 Blog | | Template Design by スタンダード・デザインラボ