捕らわれの預言者であるイザヤは、望遠鏡を未来に向けて、イエスの贖いの御業に関する形而下の諸々の出来事を詳細に予言した。彼の苦難と死に関する霊的適用を彼は予見・予言した。彼はわれわれの咎のために打たれた、と彼は告げた。これは身代わりでなくて何だろう?彼はわれわれの諸々の違反のために傷つけられた、と彼は述べる。これは彼の贖いの御業の勝利的性質を述べたものである。彼がわれわれの平安のために懲らしめを受けた時、それは身代わりだった。それから彼は、彼の打ち傷によってわれわれは癒された、と強調して告げる。

 彼は未来時制を用いなかった――簡明・簡潔な事実の叙述を曇らせる形容詞を彼は用いなかった。「彼の打ち傷によってわれわれは癒された」――この御言葉よりも短く、平易で、力強い、理解が容易な言葉がありえるだろうか?

 マタイ八章は、「それは霊的癒しを意味する」と宣言する人の論拠を完全に打ち倒す。それが意味するのはそのような類のものではない。それに関係があるのは肉体の癒しのみである。それは疑いなく魂の癒しや罪の赦しと結びついている。なぜなら、両方とも贖いの核心だからである。マタイ八章はペテロの妻の母親、悪魔に取りつかれている多くの人々、イエスのもとに連れてこられたすべての病人の癒しについて記録している。次に、これらの事が起きたのはイザヤによって語られた「彼は私たちのわずらいを身に受け、私たちの病を負った」(マタ八・一七)という言葉が成就されるためであった、とそれは告げる。

 神癒の多くの反対者たちは私に書き送って、「イザヤの預言はその時に成就された」と宣言した。「その翌日・翌年に起きたことは、預言者のこの言葉といかなる関係もありえない」と彼らは推論した。この議論は誤りである。なぜなら、イザヤは一つの贖いの御業について語っていたからである。二つの贖いはない。ただ一つだけである。贖いの半分は倒れて、もう半分は立つ、ということはありえない。

 友よ、それに反対して何が為され、何が述べられても、私にとってこの輝かしい永遠の真理はそのまま残る。あなたの癒しのための支払いは済んでいるのである。しかり、生ける神御自身の御子が支払って下さったのである。

 なぜ人々は残酷な鞭打ち台で彼を鞭打ったのか?どうして彼は自分の背中をあらわにして、ローマの鞭が自分を打つのを許されたのか?イザヤが望遠鏡のレンズを通して見た打ち傷、彼をして御霊の力の下で「その打ち傷によって私たちは癒された」と告げしめた打ち傷は、いかなる打ち傷だったか?

 御子を世に遣わした御旨が絶頂に達するのを御覧になっていた愛なる御父は、もしそれに何らかの目的がなければ、このような苦悩と痛みを御子が通るのを許されただろうか?開かれた公平な心で聖書を読むすべての男女にとって、その答えは明らかである。


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