パウロの数々の書簡は、これらの偉大な真理を更に進めて、諸々の証拠を加えた。この使徒自身の務めは、キリストの癒しの力の現われでまさに満ちていた。

 この完成された本の御言葉に付け加えたり、それから差し引いたりすることのできた人はかつて誰もいなかったことを、私は御言葉そのものから知っている。この霊感された御言葉に付け加えさせるような方法で、御霊が再び人の上に下ることはない。これは主が直接教えられたことである。聖書に関する限り、神の啓示された御旨は完結しており最終的なものである。神の御言葉は完結していて霊感を受けており、御霊や自分自身の理解力によって、それから差し引く権威を与えられた人はこれまで誰もいない。

 「神癒は教会から取り去られた」「病人のために祈ることは神の御旨に反する時が到来した」と宣言している章や節はどこにあるのか、私は神癒の批判者たちに尋ねたい。私は彼らに異議を申し立てる。これに関して主の命令は廃棄されたのであり、この使徒の教えは無に帰したのである、と人を導いて信じさせる聖書的根拠を私に一つ示してほしい。彼らにはできないし、できないことを彼らは知っている。それで彼らは立ち上がって言う――「半分の節は昨日のためのものであり、半分の節は今日のためのものです」と。彼らはあなたに「これは受け入れて、あれは投げ捨てよ」と言う。霊感されたページに批判の鋏をふるう権威を誰が彼らに与えたのか?神の御言葉から差し引く権威を彼らはどんな源から得たのか?

 ここで信仰の出番である。信仰――輝かしい信仰――神が分与された信仰――は、熱い涙を通して諸々の時を見上げ、主の御言葉を手に持ってそれを天に向かって高く掲げ、「主よ、私は信じます」と言う。部分の中に全体を含めることが可能なら、人の精神が聖霊の助けなしに聖書を理解することも可能である。時間が永遠よりも長いなら、理性が信仰を退位させてわれわれの生活の皇帝として自らを確立させるにちがいない。

 われわれの心という部屋から、不信仰や近代主義的解釈というガラクタやごみを一掃できる唯一の方法は、神を信じる信仰を行使することである。少しも躊躇せずに私は宣言する。信仰が欲しい人は、信仰を持つことができる。われわれは罪人である以上、空しく叫ぶ必要はない。神御自身が諸々の約束を果たして下さる。なぜなら、神がその計画を完成されたからである。知りたい人は、神の恵みによって知ることができる。極めて暗い所でも光は輝くことができるし、不信仰という霧で曇っている心にも理解力が臨むことは可能である。


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