「自分の持っている信仰は何と小さいことか」と疑いや恐れが争っている時は、「主よ、信じます。私の不信仰を助けて下さい」と叫ぶ方が遥かに良い。そう述べた聖書中の人物をあなたは覚えているだろう。そこには信仰があった――確かに、それはあまり大きなものではなかった――しかし、それでも信仰があった。そこには不信仰もあった。その人は不信仰を蔑み、憎み、望んでいなかった――しかし、そこには依然として不信仰があった。

 彼は立ち去って、絶望的惨めさの中で手を握り締めて、「無駄である」と言うこともできた。もしそうしていたら、彼は敗北していただろう。主の力を見て喜びのゆえに叫ばずにはいられない勝利は、決して彼に訪れていなかっただろう。その代わりに、不信仰の重荷を覚えつつ、彼は「信仰よ、働け。小さな信仰よ、神を握れ。小さな信仰よ、御声を聞け。手を差し伸ばして神に触れよ。神を去らせるな」と叫んだ。

 小さな信仰は、その筋肉を使い始める時、大きな信仰となる。決して忘れてはならない。信仰はある目的のために分与されるのであり、それが与えられた目的のためにそれを用いるのを拒むなら、それは取り下げられてしまうのである。信仰を失ったこの人がそれを失ったのは、それを用いることを拒んだからである。

 臆病者のように、彼はそれを環境や状況のせいにするかもしれない。時々私は、それが遺伝のせいである人々と知り合いになることがある。しかし、キリストは環境よりも偉大である――どんな状況もキリストには全くかなわない。遺伝の鎖ですら、ユダ族の獅子の神によって砕かれる。

 「自分は信仰を失った」と叫びまわる人が責めるべきは、自分自身以外に誰もいない。神は決してどんな人にも無理なことを期待されないし、人の能力では果しえないことを要求されることもない。神はわれわれが誘惑されるようにはなさらない。あるいは、ギリシャ語が述べているように「耐えられない試みにあわせることはない」。五十の逃れの道はないかもしれないが、逃れの道が常に一つあることを主は約束して下さっている。


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