旧約聖書の原典には、「信頼」「信仰」と訳されている二つの言葉がある。その一つは「信じる」「信頼する」「信仰」と訳されており、他動詞では「支える、とどまらせる、支援する」を意味する。自動詞ではそれは「とどまる」を意味する。「信頼する」と訳されている二つ目の言葉は、「身を放り出すこと」「身を投げ出すこと」を意味する。これらの意味は両方とも、信仰経験の発展段階に当てはまる。信仰はみな一つの基礎の上に建て上げられる。そして、その起源と作用系に関しては根本的に同じである。

 この二つの翻訳については、その意味の違いは明白だが、信仰の働きはまったく同じである。「自分は神を信じる」と言う時、その意味は「自分は神の御言葉にとどまる」ということである。われわれは神が語られる御言葉を信じる――言い換えると、われわれは神を信じる。また、「自分は神を信じる」と言う時、それが意味するのは「自分は神御自身に身を投げ出す」ということである。

 信仰に関して、聖書全体を通じて、この二つの翻訳が主流である。しかし、神がこの二種類の訳語の対象であることを覚えよ。一方においては対象は神御自身であり、他方においては神の御言葉である。しかし、神抜きの御言葉は御言葉ではない。それでは権威がなくなってしまう。それゆえ、われわれは必然的に、すべての活動的信仰の究極的目標――神御自身――に導かれる。これは重荷を持ち上げてくれる信仰ではないだろうか?誰がそれを持ち上げるのか?神である。「重荷は自ずから持ち上がる」という信仰を持っていても、何の結果も生じない。しかし、重荷を持ち上げることのできる神を信じる信仰を持ち、次に信仰を働かせることは、それとはまったく別の問題である。なぜ、イエスはわれわれの信仰の創始者であり完成者である、と称されているのか、あなたに分かるだろうか?言い換えると、彼はわれわれの信仰のアルファでありオメガである。信仰は彼の約束と共に始まり、彼の力の顕現で終わる。

 この約束を信じない人が、どうして信仰を持つことができよう?約束して下さった力ある御方がいなければ、どうして信仰が働くことができよう?こういうわけで、神と親しく歩んでいない人が信仰を行使するのは全く不可能である。親しく歩めば歩むほど、ますます信仰は豊かになる。知的業績という大路を旅して下っている人は、自分自身のことしか知らないし、時の断片的幻想以外の何物も選ばない。御霊の中を歩む人は永遠の力の領域と接触を持つ。なぜなら、神御自身と交わるからである。歴史書の頁をめくってみよ――あなたの聖書と信仰の人々の伝記を読んでみよ――そうするなら、どの事例でも、彼らは神と共に歩んだ人々であることがわかるだろう。


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