もしすべてが自明だったなら、信仰を行使するどんな必要があっただろう?もし神なき人の知性で理解可能な事柄の境界の向こうに信仰がわれわれを連れ出してくれないなら、聖書が教えているような意味で信仰を持つことを願う必要はなかっただろう。なぜならその場合、知的器官を働かせるだけで結果が得られただろうからである。つまり、もし信仰が超自然の領域で働くものでないなら、われわれは神を信じる必要がなかっただろう。なぜなら、自分が望むものを何でも神抜きで得られただろうからである。

 しかし、信仰はわれわれに理解できる事柄や、われわれの知性で理解できる事柄の境界内で働くだけではない――超自然の領域でも働くのである。信仰は不可能なことをなす。信仰は人の技能の限界を遥かに超えて及び、知的創造力の範囲外で働く。愚か者たちが時として教育を受けた人々よりも賢いのは、これが理由である。

 昔の使徒が「私はキリストのために喜んで愚か者になります」と言ったのは、信仰が、彼の人生において、学識ある博士たちが全く何も知らない領域の中で働いていたからである。彼らには岩石の年代が分かったかもしれない――しかし使徒は常世の岩を知っていた。彼らは望遠鏡を通して星々を見ようと試みることができたかもしれない。しかし、この神の子供は信仰により、星々を御座として利用される神との絶え間ない交わりの中にあった。数年の学びにより、知的限界に挑む人々もいるだろう。それに対して、神の子供は信仰によりひとっとびで、壁の反対側のどこかに着地する。信仰は天の宝をもたらして、それを時間に属する被造物に与える。

 二人の人が虹を見ているとしよう。その内の一人は、プリズムのような働きをする雨粒に及ぼすスペクトルの作用について、科学論文を書くことができるかもしれない――それに対して、神の子供はこの同じ虹を見て、その中にまさに、嵐の周囲を包み込む鮮やかな色彩を帯びた神の約束を見る。

 信仰は梯子である。われわれはこの梯子を昇って事象の世の外に出る。この梯子は実際の事象の領域に至るもののように思われる。この移行は瞬間的なものではないかもしれない。しかし、あなたがこの梯子を昇っている事実はまさに、「この梯子は私を支えてくれる」という信仰をあなたが持っていることを証明する。そして事実、頂上には何かがあるのである。その頂上は望んでいる事柄である――この梯子の段はどれも神の約束である――しかし昇るよう鼓舞するのは信仰である。

 この梯子の頂上は、最も賢い人や最も鋭い視力の持ち主でも見えないかもしれない。これはそうでなければならない――なぜなら、もし彼らに頂上が見えたなら、「頂上は確かにある」と信じる信仰を行使する必要はなかっただろうからである。


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