今、われわれはわれわれの学びのとても重要な部分に来る。「信仰とは何か?」というこの問いに注意深く、祈りを込めて答える時、「どうか聖霊が私たちを照らして下さいますように」とわれわれは祈る。

 この本の前のところで述べたが、信仰の最善の定義は聖書の中に見出される。聖書は、われわれが信仰について知っているすべてのことを、われわれに告げる。それはこの書の数々の頁の中に見出だされる。この書は、昔の敬虔な人々の心の中に働いていた信仰の素晴らしい諸々の偉業について記録している。ヘブル書一一・一は「さて、信仰は望んでいる事柄の実体であり、目に見えないものの証拠です」と宣言している。改訂訳では「信仰は望んでいる事柄の保証であり、目に見えないものを証明するものです」となっている。

 この節のこれらの異なる訳はどれも、もちろん、基本的には同じ意味である。信仰は証拠の上に確立され建てられる、と直接的に述べられている。たとえそれらのものが見えなくても、それらはそこにあるに違いない。なぜなら、もしそれらのものが存在しないなら、聖書はそれらを「もの」とは呼ばないだろうからである。それは信仰の働きの効果に、ある特定の明確な触知可能性を付与する。何も証拠が無いところでは、信仰の行使は不可能である。しかし、信仰が働けるようになるには、その働きを要求する何らかの希望――何らかの目的――が必ずなければならない。

 信仰は、神の啓示された御旨に関する真理に対して同意すること、あるいは納得することである。信仰は、神の御言葉の完全性を心で納得することである。信仰は心の信念と霊の思いの推論との組み合わせであり、不変・全能・無謬であるとわれわれが信じているところの神の確言と約束に基づく。信仰はもともと合理的ではない。なぜなら、信仰の起源は神にあり、信仰は理性の境界を超えて超自然の領域の中に達するからである。信仰は愚かではない。ただし、霊の光を持たない人は別である。なぜなら、信仰は神の御霊によって力づけられ、活気づけられているからである。御霊はわれわれを天然の領域の向こうに連れ出して、神御自身に属する超自然的力との接触にもたらす。この理由により、天然の人には非合理的なことが、御霊に満たされている人には合理的なことになるのである。


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