信仰は、われわれ自身の弱さと無能さを認めるところから始まらなければならない。人の業績の領域では、「自分自身を信じ、自分自身の能力を信じる信仰は、一つの財産である」という哲学者たちの教えには何らかの価値があるかもしれない。霊の命の領域では、そのような教えは確実に妨げである。

 有限の存在である人は、無限の領域に達することはできないし、無限に属する事柄を得ることもできない。しかし、人が自分の魂を発達させるのに必要なものは、この世に属するものではない。人は、罪の支配の中で、絶対的に無力である。罪の事実を否定することや、その影響を否定しようとすることは、たとえあなたがその証拠を認めていたとしても、愚かなことである。もし「自分は天に至る道を造り上げることができる」と信じるなら、その人は決して自分は救い主を必要とするとは感じないだろう。自分は救い主を必要とする、と感じないなら、どうして自分を救うために来られた御方を信じる信仰を持つことができよう?

 目が見えなくなるところで信仰が始まる。もし、主からの助けがなくても自分のエリコを攻め取ることができると一瞬でも想像することができるなら、主はあなたに試させてみるだろう。しかし、あなたの試みは無駄に終わることは確かである。あなたがその周りを七年間歩いたとしても、あるいはその問題のために永遠に歩いたとしても、あなたに行えるのは、その土台を固めることだけだろう。

 自信が尽きる時、信仰が生じ始める。自分自身の終焉に達する時、神が自分の人生の中に働き始める地点にあなたは到達する。使徒パウロは「私には何でもできる」と宣言した。しかし、彼は続けて「何でもできるのは、キリストによってのみである」と言った。こういうわけで彼は自分の弱さを喜んで誇ったのである――なぜなら、彼が弱い時、キリストの力が彼の上にとどまったからである。この理由のゆえに、「私が最も弱い時、私は最も強い」と彼は宣言した。この真理は信仰の手の中にある永遠の逆説である。

 もしあなた自身の頑固な意志のせいで膝を屈めることができないなら、その頑固な意志を従順にならせる恵みと力を神に求めよ。もし傲慢な悪魔があなたの開かれた耳に自分の賛歌を歌ってきたなら、その悪魔を永遠に追放せよ。ただ降参して活動を止めよ。自分の人生に神の力を必要とする、惨めで哀れな罪人として、神の御前に来たれ。そして、神に自分自身の終焉へと導いてもらえ!

 信仰は常に、自分には出来ないことを認めることによって始まる。自分が望んでいる事柄は不可能であるという深い感覚が、常に信仰に先立つ。その夜、ヨシュアがエリコの城壁の前に立った時、彼は自分の心の中で「自分にはできない、自分にはできない」と言ったかもしれない――その時、主の軍勢の将が彼の傍らに立って「いや、ヨシュアよ、あなたにはできないが私たちにはできる」と囁かれた。あなたの人生におけるそのような日が、信仰の誕生日となる。あなたの御父がこれほど近くにおられるなら、どうして恐れることができよう?


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