願うこと。「聖霊に満ちて」いることは使徒時代特有の祝福ではなく、現経綸のすべての信者の大きな特権であること、それはいま経験・理解できる祝福であること、そして、この「充満」無しに生きることはわれわれの真に正常な状態の水準よりも低い生活を送ることであることを、信仰は理解する。

 これを見て感じよ。そうするなら、直ちに一つの願いが魂の中に呼び覚まされる。それは祝福そのものの先駆者である。この願いがなければ、御霊の充満を求めるわれわれの祈りは冷たい、形式的な、非現実的なものになってしまう。満たされたいという願いは、時として、魂の不毛さを感じる痛ましい感覚によって生じる。詩篇六三・一のダビデの言葉のような表現は、神だけが与えうる命と新鮮さを求める魂の願いを正確に言い表わしたものである、と感じるのである。「私の身は、水の無い乾いた地にあるように、あなたを慕い求めます」。何と多くのクリスチャンが、経験上、この「乾いた地」の中にあることか!このような状態の中にあるのは、実に悲しいことである。しかし、不毛で実を結ばない状態にあるにもかかわらず「谷川の水」に対する願いがないのは、さらに悲しいことである。これが今日の教会の弱さの隠れた原因ではないだろうか?――乾き、不毛で実を結んでいないにもかかわらず、「神の満ち満ちた豊かさで満たされ」たいという願いが実際のところ少ししかないか、あるいは全くないのである。

 しかし、神が魂を満たそうとされる時、神は魂を「荒野」の中に誘う(ホセ二・一四)。神は魂を導いて、自分の必要を見て感じるようにされる。「そこから」神は魂に「満ち満ちた祝福」を受けさせる。自分の干上がった不毛な状態を知るようにされることは、世的な妥協はすべて全く愚かなものであって罪であることを見ることであり、神に対する全き完全な明け渡しの必要性を見ることである。神のために「徹底的」になるという考えや、この世の富を大いに失うという考えから、われわれはもはや尻込みしなくなる。神と共に進み通すことをもはや恐れなくなる。神がわれわれに関して御自身の道を進まれることを、われわれは今や喜ぶようになる。

 読者よ、あなたはこのような自己に対する絶望に導かれたことがあるだろうか?苦い経験により、二心な生活は遅かれ早かれわれわれを「水の無い乾いた地」に導くことを知るようにされただろうか?

 もし今あなたの心からの言葉がダビデの言葉と同じなら、神に感謝せよ。「神よ、鹿が谷川の水を慕いあえぐように、私の魂はあなたを慕いあえぎます。私の魂は神に、生ける神に渇きます」(詩四二・一~二)。注意せよ。この願いは単なる神の賜物に対するものではなく、神御自身――「生ける神」――に対するものなのである。

 主御自身の臨在と豊かさを求める、この同じ強烈な魂の願いが、別の詩篇の中に表現されている。「私はあなたに向かって私の手を伸ばします。私の魂は乾いた地のようにあなたに渇きます」(詩一四三・六)。

 今や、願い求めるこの霊に祝福が与えられることがわかる。われらの主はそれに至福を与えて下さる。「幸いなるかな、義に飢え乾いている者たち。彼らは満たされるからである」。それでも、この願いで立ち止まらないようにしようではないか。この「渇き」は「満たし」のための備えにすぎない。これはわれわれを次の点に導く。


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