もし「聖霊に満ちて」いるなら、特別な困難が生じる時、また奉仕への特別な召しがわれわれに臨む時、この「満たし」あるいは瞬間的供給が常に与えられることに、われわれは気づく。これによりわれわれは、どんな場合でも、御旨にしたがって、勝利し、証しし、奉仕し、実を結ぶことができる。われわれが満ち溢れるのは、これらの満たしが臨む時である。

 御霊に満ちているこの恒久的状態が、どんな時でも、またどんな環境の中でも、神のすべての子供を特徴づけていなければならない。これは、恵まれた少数の人だけに属する特権ではないし、特定の機会や特別な環境の時しか期待できないものでもない。

 信者の正常な状態を、縁まで水で満ちている器で描写することができる。この状態のおかげで信者はさらなる供給に頼らなくてすむようになるわけではないし、自己満足するわけでもない。反対に、このように「満ちて」いることは自分自身の不十分さと、支えて新しくしてくれる神の恵みの必要性とを毎瞬意識することである。「聖霊に満ちて」いる魂こそ、真に上を見上げて、子供のような単純さで絶え間ない供給を求めて信頼する人である。

 これらの「満たし」が臨むのは、それらが必要であることを神が御覧になる時である。その時、魂は「生ける水の川々」で満ち溢れる。この「生ける水の川々」がペンテコステの日々の特徴でなければならない、とわれわれの主は宣言された。

 しかし、神の子供たちの大多数の経験は、悲しいことにこれとは異なることがしばしばある。時々この充満を受けることがどういうことか、しばらくの間「聖霊に満ちて」いることがどういうことか、彼らは知っているかもしれない。しかし、霊的漏出があまりにも大きくて分かりにくいため、大抵の場合、間もなく彼らは空虚な状態に陥り、主の御用に相応しくなくなってしまう。特別な必要の時や、特別な奉仕の時に、彼らは特別な供給を受けるかもしれないが、そうした供給ではもはや満ち溢れないことに彼らは気づく。そして、その理由は明白である。彼らの霊の命の最高水位線が、言わば、彼ら自身の容量の水準よりも遥か下にあるのである。

 さて、何が必要なのかは明らかである。第一に「満」たされること、次にその充満の中にとどまることである。この「満たし」は、われわれの必要に応じて、奉仕の道に臨む。その都度供給を受けることについて心配する必要はない。神は「御自身の栄光の富にしたがってキリスト・イエスにより」われわれの必要をすべて完全に満たして下さる。


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