それでは、勝利の生活を送るために、信者の側に何が必要なのか?肉と戦ってそれを征服することではない。実際、罪を征服する力は信者にはない。むしろ、自由に肉か御霊かどちらかを選べる。一方か他方に服することができる。そして、自分の意志を絶えず聖霊に明け渡すことにより、自分の中にはない神の力、肉を完全に征服して肉の欲からの解放の道を絶えず与えてくれる力を、信者はただちに見出す。それゆえその結果、もし聖霊がわれわれの内におられなかったなら必然的にしていたに違いない悪行をわれわれはしなくなる。しかし、この章の最後で使徒が述べていることに注目せよ。「キリスト・イエスのものである者たちは、肉をその情と欲と共に十字架につけてしまったのです」。

 「この意味は確かに、クリスチャンになった者たちには今やその情と欲を伴う肉はもはや存在しないということではない」。ここの磔殺は「キリストの十字架を自然に彷彿とさせる。そして、キリストとの交わりには肉の磔殺が含まれる。それは十字架上のキリストの死との交わりだからである」。それゆえ、十字架上のキリストの死を信仰の中で自分自身に適用した者たちは「その座が『肉』にある罪との致命的な交わりをすべて捨てたのである。それは、キリストが客観的に十字架に付けられたように、われわれも、十字架上のキリストの死の交わりの中に入ることにより、信仰の道徳的意識の中で肉を主観的に十字架につけるためである」。これは肉を「われわれがその中に移った新しい生命要素である信仰を通して無効化することである。この箇所のように理想化されたクリスチャンたちにとって、肉をこのように道徳的に屠ることはすでに起きたことである。しかし現実には、それは今も起きていて継続していることなのである」(ランゲ)。

 「キリストの死への同形化」という主題に関して別の章ですでに述べたことが、この点と関係している。罪に対するキリストの死との一体化と、この死の中で彼の思いと心と一つになることにより、肉は十字架に渡されるだけでなく、そこに保たれるのである。肉を死の場所の中に保つことが、継続的解放の道を歩む唯一の方法である。

 だから、このように肉を抑制すること、あるいは肉を死に渡すことを成し遂げるのは、御霊の中でであり、御霊を通してであり、御霊によってである(ロマ八・一三)。そして、これはただ十字架のみによる。

 それゆえ、ガラテヤ人への手紙のこの章がわれわれに示しているのは、多くのクリスチャンが真のキリスト者の戦いと誤解している、二つの性質の間のあの戦いの描写ではなく、戦いに勝利するのを妨げる最も深刻な障害から解放される道なのである。この章がわれわれに示しているのは、聖霊の力によって悩ましい「肉の欲」の影響から自由な立場に立つことのできる方法である――この自由は、われわれがこの戦いに従事し、競争を走り、働きにおいて労苦し、神の恵みによって召された交わりの中にとどまるために、必要不可欠なものである。


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