いま特に使徒の視野の中にある敵はサタンではない――それに関する戦いについては、エペソ書六章ですでに考察した――ここでの敵は肉である。しかし、「肉」という言葉で使徒は何を言わんとしているのか?と、われわれは問わなければならない。この用語が聖書の中で人類全般を示すのに使われていることをわれわれは知っている。「すべての肉は草のようだ」。それはまた、われわれの肉体的性質、われわれの身体組織についても使われている。「私がいま体の中で生きているその命」。しかし、この言葉は別の意味でも使われている。特に使徒パウロによってである。肉は罪の座として述べられている。「この表現は魂よりも身体器官について述べている、と考える正当な権利はわれわれにはない」(ランゲ)。この言葉をわれわれの物質的・肉体的性質と等価なものとして受け取ってはならない。「肉という観念の本質的要素は、神を拒否すること、自分自身に向かうこと、自己を求めること、利己的要素である。これはもっぱら神に関するものである。しかし、他の人々に関しても人は自分自身、自分の享受や自分の益を追い求めるものである、という事実とも直接関係している。それゆえ、なぜ御霊の第一の効力が、利己主義に逆らう気質や行為である愛なのか、その理由は容易にわかる」(ランゲの注解で引用された、ミュラーの「罪に関するキリスト教の教理」から)。

 利己主義が「肉」と称されているこの原理の本質である。肉は自己への、あるいは再生された人の中にすら存在する罪へのこの傾向性である。アダムが創造された時、もともとこの悪い傾向性はなかった。ただし、罪を犯す可能性はあった。しかし、罪に対する傾向性と罪を犯す可能性との間の区別を見落としてはならない。水に浮かんでいる木片には、沈む傾向性は無い。それは沈む可能性はある。外力によって沈められるかもしれないからである。しかし、安全ベルトで水に浮かんでいる鉛片は、実際に沈んではいないものの、沈もうとする自分自身の傾向性を有する。

 今、われわれはこう信じる。「肉」は、それをどう定義しようと、霊に向かうことが不可能なものなのである。また、われわれはさらにこう信じる。肉は罪への傾向性として最後まで信者の中に存在し続けるのである。つまり実際には、それは今生では根絶されないのである。それゆえ、われわれが生来持っている力よりも大きな力、恵みによってわれわれ自身の内にある力よりも大きな力、すなわち聖霊御自身が、われわれには必要である。それは、この傾向性を対処してもらって、われわれをそれから継続的に解放してもらうためである。「私たちを堕落から守ることのできる」この神聖な力を絶えず揮ってもらうことが必要である。そして、われわれは常にそうしてもらえるのである。そのおかげで、たとえ沈もうとする傾向性は取り除かれなくても、効果的に抑制されるようになるのである。

 この二つの原理は正反対である。しかし、ランゲが述べているように、この節(ガラ五・一六~一八)が描写している「この対比」を「果てしなく続くものと決して考えてはならない。文脈が示しているように、それとは反対に、自分自身を完全に明け渡すことをクリスチャンは求められている。それは、一つの原理である御霊によって動かされて、肉の欲に道を譲ることを拒否するようになるためである」。


オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館
オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館へ

コメント
トラックバック
トラックバックURL
コメントフォーム
管理者にだけ表示を許可する
プロフィール
カレンダー
10 | 2017/11 | 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
全記事表示リンク
検索フォーム
個人のブログに関するリンク集
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

電子書籍
Glorious Secret
ジェシー・ペン-ルイス
「栄光の奥義」


The Cross of Christ
アンドリュー・マーレー
「キリストの十字架」


ランキングサイト
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ

人気ブログランキングへ ブログランキング

ブログのまどランキングへ ブログ王へ

ブログランキング【くつろぐ】

QRコード
QR
カウンター

Page Top
Powered by FC2 Blog | | Template Design by スタンダード・デザインラボ