われわれは主の導きを見張らなければならない。

 「私はあなたに指示し、あなたの行くべき道について教える。私は私の目であなたを導く」(詩三二・八)。

 神の目によって導かれることは、あらゆる種類の導きの中でも最も細心の注意を要することである。あなたは自分の手で耳の聞こえない人を導くことができるし、あるいは、自分の声で目の見えない人を導くこともできる。しかし、目が見えていて、喜んであなたの目を見続け、あなたの表情を理解する人でない限り、あなたはその人を自分の目で導くことはできない。しかし、これは親密な知識と個人的面識とを前提とする。

 一生に及ぶわれわれの旅路の大路だけでなく、一日の行程の中にも、御旨を知る必要がある多くの小さな岐路がある。御旨の中にとどまり続けるためにわれわれが見張る必要があるのは、神の目の静かではあるが誤りなき指示である。時として、一つのささやかな出来事や、ほんの一歩によって、どれほど重大で深刻な結果が生じることか!見張っていることが必要なのは、敵の罠に陥ることから守られるためだけでなく、神の御旨を知る知識の中にとどまるためでもある。

 それゆえ、あらゆる種類の神の導きの中でも最も幸いで最も真実なこの導きを知りたいなら、神の御傍近くに生きること、そして用心深い霊をもって歩むことがどういうことかを、われわれは理解しなければならない。その時、神がわれわれに行わせたいことやわれわれに取らせたい道を、ただ神の目だけがわれわれに十分に示せるようになる。魂とキリストが完全に理解しあっていなければならないのである。

 「あなたは理解力のない馬や騾馬のようであってはならない」(詩三二・九)。真の知恵は神の御心を知ることにある。「賢くない者にはならないで、主の御旨が何であるのかを理解しなさい」(エペ五・一七)。

 われわれは主の教えを見張らなければならない。

 「私は自分の見張り場に立ち、塔の上にとどまって、彼が私に何を語られ、私が訴えられる時に何と答えるべきかを見張って見よう」(ハバ二・一)。「彼は私の耳を呼び覚まし、教えを受けた者のように聞かせられる」(イザ五〇・四)。彼にはわれわれに教えるべきことがたくさんある。それらの事柄は、われわれの弟子たる身分の初期の段階では、われわれには学べないことである。しかし、彼は知恵のある、優しく、忍耐強い教師である。われわれはマリヤのように彼の足下に座して、彼から学ばなければならない。それは彼の真理を受け入れることによってだけでなく、彼の恵みにあずかり、彼の霊から飲むことによってでもある。彼は「恵みと真理に満ちて」おられる。

 「日毎に私の戸口で見張り、私の門柱で待っていて、私に耳を傾ける人は幸いである」(箴八・三四)。この見張りの姿勢、主の御声に耳を傾ける姿勢にどれほど多くのことがかかっているのか、述べるのは不可能である。最善の使者は最も独創的な人々ではなく、主が自分たちに語られたことを最も忠実に他の人々に伝えられる人々である。心に満ちているものの中から口は語るが、聞くことによって心は満たされる。主の御声の良き聞き手となるには、日毎にその戸口で見張ることがどういうことかをわれわれは知らなければならない。


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