さらに、ダビデの勇者たちに関してこう記されている。「彼らは完全な心をもって来て(中略)ダビデを全イスラエルの王にしようとした」(一歴一二・三八)。この件に関して心は全く固まっていた。不純な動機や、誠実さの欠如はなかった。それは真実な心であり、使徒がピリピ人たちに「それはあなたたちが誠実な者となるためです」と願ったような誠実な心である。これはつまり、「白日の下で裁かれて、純粋であることが判明する」ことである。その心の目的と意図は徹底的である――「神に対して完全」である。これが描写しているのは達成よりはむしろ姿勢である。

 このような心は神の検査に尻込みしない。神の聖なる火の、貫き通し、純化し、焼き尽くす力に喜んで自分を明け渡す。このような心は主に対して忠実である。その願いは、キリストが全存在に対して王となることである。

 魂のこの状態が生じるなら、力の不足はまったくなくなる。神御自身が、われわれの弱さの中で、御力を完全に現わされる。

 これまでわれわれは「力はあなたのものです!」と何度言ってきたことか!しかし、この言葉の深い意義の中にどれほど少ししか入り込んでいなかったことか!「ああ、この力が自分のものだったなら!」という考えが、どれほどわれわれの思いを占めてきたことか。しかし、神の力を持つには、神御自身を持たなければならない。私が強いことを神は示して下さる、ということではない。私自身の弱さを――私は弱さそのものであることを――私はずっと学ぶことになる。しかし、神の力が幕屋のように私を覆う。これが「……それはキリストの力が私の上にとどまるためです」(二コリ一二・九)という御言葉の意味である。

 神が御自分の子供たちを通して御力を現わそうとされる時、神は次のように彼らを導かれる。神は彼らをこの心の状態の中にもたらされる。神との論争がもはや何もない状態、彼らが自分の存在の各部分を自発的に神に明け渡す状態である。神が全く自由に用いることができ、しかも、神に対する忠実な姿勢が維持されている心の状態である。その時、その僕にあって神の力が現れるのを邪魔するものは何もない。その時、その経路は開かれており、神の豊かさを流し出すのを妨げるあらゆる障害から解放されている。その時、あらゆる方面で、神の力が現わされる。


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