しかし、この同じ言葉には別の訳もある。ソロモンの神殿に関して、「その家は建てられる時、石切り場で整えられた石で建てられた」(一列六・七)。「完全」という言葉はここでは「整えられた」と訳されている。石はみな整えられて、建設者の用に適うものにされた。建設者の用のために整えられたのである。それゆえ、完全な心は用意の整っている心である。それは「主人の用に適い、すべての良いわざのために整えられている」(二テモ二・二一)。それは「自分自身のことを顧慮しない心」である。自分自身の心配や霊的困難に没頭しておらず、安息しており、神に献げられている。自由に神の奉仕に打ち込める。好機が到来するとすぐに、それをつかむ用意が整っている。用意を整えるために時間を費やすことはない。常に調律された楽器のように、そのような人は主が望まれる時はいつでも、主に用いていただく用意をただちに整える。

 どれだけ多くの人が、自分の心を整える働きに自分の時間を費やしていることか!まるで、彼ら自身の聖別が彼らの召しの一大目的であるかのようである。

 大工は、自分のなすべき働きのために、自分の道具を研ぐ。しかし、道具を研ぐことは目的ではなく、彼の目の前の目的のための手段にすぎない。同じように、われわれの心を神に対して正しくすることは、そのためにわれわれが贖われた一大目的を達成するための手段にすぎない。

 最高の技能を要する精緻な作品、極めて繊細な手仕事に従事している職人が、一つの道具を手に取って、その刃が欠けているのを見出したとする。すると、彼はただちにその道具を置いて、使える状態の別の道具を取り上げる。彼は、完全な或いは「用意の整った」道具を通して、自分の力を注ぎ出す。このような道具だけを、職人は自分の仕事に使うことができる。

 何と多くの神の子供たちを、神は御自分の用に適う者とするために――場合によっては厳しい訓練によって――整えざるをえないことか!われわれが神の奉仕に真に適うようになるために、どれほど多くの高ぶり、自己意志、肉的なエネルギーが取り除かれなければならないことか!力が不足しているせいではなく――力は神に属し、神に力の不足はない――神に対して正しくないせいで、神の御言葉がしばしば述べているこの心の完全さに欠けているせいで、われわれは自分自身において力が現れるのをあまりにも少ししか経験していないのである。神の用意は整っており、「その心が神に対して完全な者たちのために、御自身の強さを示」すのを待っておられるのである。


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