力は神が授ける賜物ではない。例えば、火の力を可燃性の物質に伝えることは可能である。例えば、ロウソクを他のロウソクで灯す時のように。しかしこの場合、新しく灯されたロウソクは、それを灯した源が何であれ、自分自身の独立した炎を持っており、自分自身で燃える。霊的力はこのような方法で伝達されるのではない。それは合一による力である。

 大きな工場の中に入って、様々な区画を通り過ぎる時、稼働中の機械の各部品の中に、素晴らしい働きを成し遂げている力をあなたは目にする。そしてあなたは、「これらの機械を動かしているのは何だろう?この活動全体の源は何だろう?」と問う。

 すると、あなたは動力室に連れて行かれる。そこであなたはその中心、工場全体に伝達されるすべての力の源を見る。各区画の機械は、自分自身の独立した力で働くのではない。自分自身で生み出した力や、他の源から自力で引き出した力で働くのではない。そうではなく、その中央動力から毎瞬絶えず受け取る力によって働く。

 動力から機械に力を伝達するのに必要不可欠な条件は合一である。そのつながりを断つなら、力は止む。勝利の生活を送るのに必要なこの力についても同じである。それは神聖な力、神の力でなくてはならない。われわれ自身の内に眠っている力や、われわれが自分で神から引き出してわれわれの内に蓄えられている力ではなく、われわれが受け取り続けている力でなくてはならない――この力は止むことのない力の流れとして、すべての霊の命の中央動力すなわち主イエス・キリストからわれわれのもとに来る。神の力である御方との生き生きとした合一がなければならないのである。

 しかし、信者はみなキリストに結ばれていること、「主に結合される者は一つ霊である」ことを、われわれは知っている。われわれはまた、「誰でもキリストの霊を持っていないなら、その人は彼のものではない」ことを知っている。だから、われわれはこう結論する。すなわち、キリストの教理を持っているのに、キリストに結ばれていない人がいるかもしれないのである。しかしその人は、キリストに結ばれずに、キリストの霊を持つことはできない。御霊は合一の本質である。これは全ての信者に言える。この合一は聖さの中で到達すべき事柄ではなく、すべての命の開始点であり、すべての聖さの出発点である。

 命は生ける御方を受け入れることによって来る。キリストの贖いの死の中でキリストと一体化されて、われわれはキリストの復活の命の中でキリストに結合される。「一つからだと一つ霊」。そしてこのからだはかしらと同じ名――「キリスト」――を帯びている。「キリストも同様だからです」(一コリ一二・一二)。キリストは天使たちのかしらである。しかし、キリストはからだのかしらであり、信者は皆このからだの肢体である。これは、キリストが天使たちのかしらであることよりも、いっそう高い意味でそうである。天使たちは天の群れの一部分を成しているが、信者たちはキリストの花嫁であるこのからだの肢体である。この合一は言葉の綾や、単なる夢ではない。それは現実であり、文字通り霊的に真実なのである。


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