これから、キリストの死の意義を理解することの重要性は、どんなに強調しても強調しきれないことがわかる。キリストは「罪のために」死なれただけでなく、「罪に対して」死なれたことを、われわれは理解しなければならない。この二つの意味の最初のものについては、キリストはひとりで死なれた。われわれは彼と共に死ぬことはできなかった。彼だけがわれわれの諸々の罪のための宥めとなられた。しかし、二番目については、われわれは彼と共に死んだのである。罪に対する彼の死の中で彼との調和の中にもたらされることの何たるかを、われわれは知らなければならない。この意味におけるキリストとの一つが、罪深い欲望からだけでなく古い自己の命からも実際的に分離されるようになる手段である。死につつあるキリストへのこの同化は、一度きりの行為ではなく、絶えず維持してますます深めるべき心構えである。「この同じ思いで自分自身を武装しなさい。なぜなら、肉において苦しんだ者は、罪から停止したからです」(一ペテ四・一)。

 キリストの死との一体化は、主の晩餐の中でわれわれが学ぶ偉大な真理である。裂かれたパンと注ぎ出されたぶどう酒は、彼の死の象徴以外の何だというのか?この秘跡の中でわれわれが特に熟慮して強調するものは何か?「彼が来られるまで、あなたたちは彼の死を示すのです」。そしてこれらの要素に与ることによって、われわれはこの死の中で彼と一体化されるのである。彼の死の中に入り込むにつれて、心と思いの中で彼の死に同形化されるにつれて、われわれは彼の命に実際にあずかる者となる。

 聖書の中でキリストの血について述べられている所ではどこでも、それは流された彼の血を常に意味する。この「血」は命であることが、旧約聖書(レビ一七・一〇~一一)からわかる。「なぜなら、肉の命は血の中にあるからである」。このような性格を持つため、血を食べてはならなかった。血は「あなたたちの魂のために祭壇の上で贖いをなすために」取っておかれなければならなかった。「魂のために贖いをなすのは血だからである」という句は、もっと正確には、「魂という手段によって血は贖いをなすからである」と訳すことができる。つまり、血は動物の命の入れ物なのである。血はその命を表わす。それが流される時――注ぎ出される時――それはその命がいけにえになったことを表わす。言い換えると、その動物の死を表わす。流された血はいけにえの死の象徴である。

 さて、われわれが「キリストの血」について話す時、それは注ぎ出されて犠牲になった命を意味する。すなわち、彼の死を意味する。

 彼の死の中にはわれわれを罪から分離する力がある。清めはすべて分離することである。衣が清められる時、それはそれを汚すものから分離される。

 それゆえ「すべての罪から」「キリストの血は清める」――つまり、キリストの血は分離する。さらに徹底的にこの死と一つになればなるほど、われわれは「あらゆる不義から清め」られることがどういうことかをますますよくわかるようになる。


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