しかし、困難はまさにここにある。次のように応じる人もいるだろう。「それは努力の問題ではなく信仰の問題であることを示したとしても、それでこの困難がなくなったわけではありません。それはただこの問題を別の舞台に移したにすぎません。私はどうすればさらに信じることができるようになるのでしょう?私の失敗は私の不信仰のせいであることを私は知っています。しかし、どうすればさらに多くの信仰を得られるのでしょう?」。

 これはわれわれをこの章の要点に導く。実は、われわれには二つの力が必要なのである。妨げを取り除く力と、実を結ぶ力である。われわれを悪から分離する力と、われわれを善なる者に造り変える力である。

 この二重の力はキリストの中に見出される。そこに彼の死の力と彼の命の力がある。われわれは二番目のものの中に生きるようにされたからといって、一番目のものに別れを告げることはない。否、キリストの復活の力を知る条件は、「その死に同形化されること」なのである(ピリ三・一〇)。

 罪に打ち勝ち、「実を産出することをやめない」まことの命は、死の中から生じる命である。

 最初見る時、われわれはその意味を理解しそこなってしまうのだが、「いつもこの体に主イエスの死を負っています」という使徒の言葉には深い霊的意義がある。この御言葉の中の「死」という言葉は「死に渡すこと(nekrosin)」とも訳される。「それはイエスの命もまた私たちの体に現わされるためです」(二コリ四・一〇)。

 ここでは、死が命の条件としてわれわれの前に示されている。命の継続的現われは、死への継続的同形化による。

 死は分離を意味し、命は合一を意味する。罪に対するキリストの死と同調すればするほど、ますますわれわれは罪の働きと汚れから徹底的に分離されるようになる。それは罪を犯すことからの分離であるだけでなく、古い自己の命からの分離でもある。キリストの命の現われに対する大きな妨げは、自己の命の存在と活動である。これは終わらされて取り除かれなければならない。「主イエス・キリストの死に渡すこと」以外の何ものもこれを成し遂げられない。彼の死への同形化は、心と思いにおいて古い命の活動・動機・目的の昔の源から分離されることを意味する。

 この「同形化」は神の命が現れるための条件である。すでに見てきたように、「イエスの命」はそれをさらに生きたものとするためにわれわれの力や努力を必要としない。神が要求されるのはただ、この妨げを取り除くために必要不可欠なこれらの条件にわれわれが同意することだけである。これらの条件に従うなら、ただちに命が自然に、しかも緊張や努力なしに湧き出る。自分自身の直接的努力でこれを生み出すことや強めることはできないが、神が定められた諸々の条件に従うことによってその現われを間接的に増すことはできるのである。

 われわれのなすべき分は、キリストの死の中に下ることである。キリストのなすべき分は、泉から水が湧き出るように、われわれの中で御自身の命を生かし出すことである。その時、使徒が「キリストが私の中に生きておられます」と述べた時に彼が何を言わんとしていたのかを、われわれは知る。このようにキリストが住んで妨げられることなく活動している所には、絶えざる成長、恒久的新鮮さ、実り豊かさがあるようになる。そして、命が容易かつ自然に現れるようになる。それが自然なことになるからである。


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