それでは、すべての実際的聖さの源は何か?それには源があるにちがいない。どの川にも源がある。どの実も、根と生き生きと結合していなければならない。それでは、われわれが実を結ぶための源は何か?われわれの新しくされた性質ではない。「御霊から生まれるものは霊です」(ヨハ三・六)。聖霊なる神の働きにより、霊的性質が分与された。しかし、「実」はわれわれの新しい性質の産物ではない。これは、ぶどうの実が枝の産物ではないのと同じである。枝が実をつけるが、根がそれを生み出す。それは「御霊の実」である――聖霊なのである。悪い木は良い実を結ぶことはできない。その実が良いものとなるには、再生が必要不可欠である。しかし、新しい性質はその源ではない。それはキリスト御自身である。すべての聖なる生活の源はただ一つしかない。聖なる生活はただ一つである。「あなたの実は私から得られる」(ホセ一四・八)。「私は命です」。キリストが命であるのは、彼が完全な生活の模範であるからではないし、命の賜物の与え主であるからでもない。また、キリストは生命原理そのものであるからでもない。キリストは源そのものなのである。「命の泉はあなたと共にあります」(詩三六・九)。

 それはわれわれの内に生きておられるキリストである。使徒は贖われていたが、「生きているのは私ではない」と言った。彼は再生されて永遠の命を持っていたが、「生きているのは私ではない」と言った。「私は生きています。しかし私ではなく、キリストが私の内に生きておられるのです」(ガラ二・二〇)。

 聖ヨハネ福音書の四章でキリストが約束されたのはこれだった。「私が与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き上がります」(ヨハ四・一四)。われわれがキリストを命として受け取ることは一度きりである。しかし、この事実をわれわれが心で知るのは漸進的である。われわれはまず命の源を見る(ヨハ一・四)。次に、命の授与(ヨハネ三・一六)、命の内住(ヨハ四・一四)、実際に流れ出る命(ヨハ七・三八)を見る。この最終段階で、われわれは内住のキリストの産物である「実」を持つ。

 それゆえ、ここにあらゆる実際的聖さの源がある。「生きている」というこの単語を強調することが重要である。「キリストが私の内に生きておられます」。


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