「キリストの命は、神の性質の中に植えられた神聖な種から現れた。この種は花のように自然に芽から成長した。この花を模倣することは可能かもしれないが、それが造花であることを人は常に見破ることができる。ロウで人の姿を複製することはできるが、それでも本物との違いを察知しそこなうことは決してありえない。これこそまさに、クリスチャン原理の自然な成長とその道徳的複製との間の違いである。一方は自然だが、他方は機械的である。一方は成長だが、他方は堆積である。さて、現代の生物学によると、これが生きているものと生きていないもの、有機体と結晶の根本的違いである。生きている有機体は成長するが、死んでいる結晶は量が増す。前者は内側から活き活きと成長するが、後者は外側から新たな粒子を加える。これがクリスチャンと倫理学者の大きな違いである。クリスチャンは中心から働くが、倫理学者は周辺から働く。一方は有機体であり、その中心には生ける神によって生ける種が植えられている。他方は結晶であり、とても美しいかもしれないが、ただの結晶にすぎない。生き生きとした成長原理に欠けているのである」(ドラモンド教授)。

 それゆえ、義務を遂行して良い働きを行い、それを実と呼ぶおそれがある。「半ダースのぶどうを古傘に結び付けても、それは葡萄の木にはならない。とても慎重に結び付けても、そのぶどうは成長しない。しかしこれこそまさに、多くの人々がしようとしていることなのである」(カノン・ウィルバーフォース)。

 実際的聖さは行うことによって始まるものではなく、成ることによって始まるものである。それは、家を建てるように、ブロックを積み重ねることによって、建て上げられるべきものではない。それは「道徳規範のモザイクや、功徳の積み重ねや、行為の継続ではない。それは成長である」(ハニントン司教)。

 実に良いものではあるが、それでも決して「実」ではない外面的活動による働きがかなりあるかもしれない。使徒がコロサイの回心者たちに望んだのは、彼らが「あらゆる良いわざで実を結ぶ」ことだった(コロ一・一〇)。言い換えると、彼らの奉仕は神聖な、内住する、生命原理の直接的結果でなければならない、ということである。良いわざに熱心かつ積極的で、忙しくしていたとしても、それでも実を結ばないままのおそれがあるのである。真の実があるところには、中心から周辺に向かって流れる行動の流れがあるものである。


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