「あなたたちが実を豊かに結ぶこと、これにより私の父は栄光をお受けになります」(ヨハ一五・八)。

「あらゆる良いわざで実を結び」(コロ一・一〇)。

「あなたの実は私から得られる」(ホセ一四・八)。

「いつもこの体に主イエスの死を負っていますが、それはイエスの命もまた私たちの体に現わされるためです」(二コリ四・一〇)。

「それは私がキリストと彼の復活の力と彼の苦難の交わりとを知り、彼の死に同形化されるためです」(ピリ三・一〇)。

「私はキリストと共に十字架につけられています。それにもかかわらず、私は生きています。私ではなく、キリストが私の内に生きておられるのです」(ガラ二・二〇)。

「神が光の中におられるように、私たちが光の中を歩くなら、私たちは互いに交わりを持ち、御子イエス・キリストの血が、すべての罪から私たちを清めます」(一ヨハ一・七)。


 実際的聖さが、聖書の中で実という絵図の下で、われわれの前に示されている。しかし、実とは何か?それは樹液の蓄積である。木のすべての内的活動の最終的結果であり――隠れた命の所産である。この命は根から始まり、幹を通って枝に至り、最終的につぼみ・花・実となって現れる。この実が形成されて熟す時、木の活動と成長の大いなる目的は達せられる。命はその循環を全うしたのである。

 それゆえ実は、他者の益のために犠牲になる霊の命の側面を示す。実は「枝によって生み出されるものであり、これにより人々は元気と養いを得る。実は枝のためではなく、それを持ち去る人々のためである。実が熟すやいなや、枝は実を切り離す――そしてその施しの働きを新たに開始して、次の季節のためにその実を用意する。実を結ぶ木が生きているのは、自分自身のためではなく、完全にその実が元気と命を与える者のためである。それゆえ、枝は全く実のためだけに存在する。農夫を喜ばせるのは、その目標、その安全、その栄光である」(アンドリュー・マーレー師)。「あなたたちが実を豊かに結ぶこと、これにより私の父は栄光をお受けになります」(ヨハ一五・八)。

 それゆえ、実際的聖さは、製造されるべきものではない。人が神の御子のかたちに同形化されるには、完全な模範以上の何かが必要である。なぜなら、聖さは単なる模倣の問題ではないからである。


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