これから次のことがわかる。聖となるには、われわれは「聖なる方」を得なければならない。それはわれわれの内におられるキリストでなければならない。この聖さ無しに「誰も主を見ることはできない」。歩みの聖さは聖なる方から流れ出る。行いにおける神の御旨への同形化は、心と精神における神の御旨への同形化の結果である。そしてこれは、キリストを主としてわれわれの心の中に祀ることによってのみ、実現されうる(一ペテ三・一五)。つまり、「あなたの存在の最も内側深くの部屋の中でキリストを崇拝するのである。彼は崇拝にふさわしい御方であり、あなたの所有者・主となることを求めておられる」(ビート)。この源を得よ。そうすれば流れを得る。これこそ「それが無ければ誰も主を見ることのできない聖さ」である。

 しかし、この賜物を信者はみな贈り物として持っているにもかかわらず、自分がキリストにあって実際に何を持っているのかを理解しそこなっている人々が何と多いことか!地所の所有者になることと、そこにあるものを知ることとは、別の問題である。土地を実際に所有することと、その土地の地下にある莫大な財宝を知ることとは、別の問題である。それゆえ、たとえ主であるキリスト・イエスを自分の心の中に受け入れていたとしても、キリストの内に蓄えられている恵みと栄光の富を、日々の経験のために、依然として比較的少ししか理解していないおそれがあるのである。

 それゆえ、キリストはわれわれのものだが――われわれはキリストを贈り物として持っているのだが――なおも従い続けて彼をもっと完全に知らなければならない。キリストを日毎に慕い求めなければならない。「従いなさい(中略)この聖さがなければ、誰も主を見ることはできません」。これは活動、熱心さ、勤勉さ、熱意を意味する。ある対象に従うことは、それを常に自分の前に置くことである。それを見失わないことである。それがあなたの思いの中に住み着いて、まさにあなたの命の一部となる。それはあなたの行いの中に入り込み、あなたの性格に印を押す。あなたの願望の対象、あなたの力の目標であるものは、あなたの生活を造り変える効力があるのである。

 しかしこれは、「われわれがキリストに似た者となるのは、ただイエス・キリストに倣った結果に他ならない」と言うのとは大いに異なる。キリストがわれわれの聖別であることには、キリストがわれわれの模範であることよりも、遥かに高度な意味がある。キリストがわれわれの聖であるのは、彼がわれわれの中に住んでいて、われわれの道徳的存在全体を支配し、われわれの生活全体を造り変え、われわれの中でわれわれの全ての思い・言葉・行動の源となって下さっているからである。


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