三.最後に、聖化は、その最も完全な意味によると、一つの賜物である。

 神の臨在の中にとどまるために、聖さ以上に必要なものは何もない。われわれに必要なのは、諸々の罪の赦しだけではない。平安だけでは不十分である。われわれのために福音の中に備えられているのは、われわれを神に受け入れられる立場に置いてくれる完全な義だけではない。神の似姿……心の同形化……性質の合一もなければならない。

 しかし神は、御自分が要求されるものを、まず備えて下さる。「すべては神からです」――これが恵みの主要な特徴の一つである。そして、信者の成長の各段階を、恵みが特徴づけている。罪からの救いが可能なのは、われわれが自分で何とかするよう放置されていないからに他ならない――われわれの功績、われわれ自身の努力、われわれ自身の能力で何とかするよう放置されていないからに他ならない。彼は「あらゆる恵みの神」である。神の諸々の要求に自分自身で応じなければならないかのように振る舞う瞬間、われわれは恵みの立場を捨てるのである。

 救いは恵みによる。なぜなら、それは賜物だからである。それはみなキリストの中に含まれている。

 さて、聖くなければ誰も主を見ることはできないことをわれわれは知っている(ヘブ一二・一四)。しかし、キリストは罪人を、その人が地上にいる最後の瞬間でも救えると、われわれは信じている。聖さを聖霊によってわれわれの内になされる一つの過程・御業としてのみ考えると、それとは別の結論に導かれる。合理的に次のように問うことができるだろう。「もし聖くなければ誰も主を見ることができないなら、あの悔い改めた盗人のように、十一時にキリストのもとに来た人たちはどうなるのですか?」。彼らには聖さにおいて成長・発達するための時間や機会はなかったのである。

 しかし、この困難は「聖書における聖さの意味は何か?」と問うよう人を導く。それが聖霊によってわれわれの内になされる御業を指すことがしばしばあるのを、皆が認めなければならない。しかし、キリスト御自身が神によって私たちに対する義だけでなく聖別ともされたことを、神の子供たちの多くが理解しそこなっている。神の最大の賜物の一つ――それは神の「言い尽くせない賜物」と関係している――は聖さの賜物である。

 イエスは完全な人に関する神の観念である。その地上生涯は、神聖な聖さに関する神の理想が真の人間性において出現・開示するのを、われわれの前に示す。

 神が御子を送られたのは、すべての義を成就して御自分の義なる律法の要求を満たす「義なる者」とするためだけではない。神が御子を送られたのは、御父の心の願いをことごとく満足させる「聖なる者」――御父が絶えず喜ぶことのできる者――とするためでもあった。


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