一.聖化は一つの過程であると考えられる。つまり、再生の後、聖霊によって信者の魂の中でなされる一つの御業であると考えられる。再生と更新の両方とも、聖霊がその創始者である。しかし、この二つは同じではない。再生は、神の命が瞬間的に魂に伝達されることである。これは段階的ではありえない。信者の間で再生の度合いが異なる、ということはない。「しかしこの聖化の御業は漸進的であって、異なる段階がある。ある人は、たとえ全く聖められているわけでも、全く聖いわけでもなくても、別の人よりも聖められていて、より聖いかもしれない」(オーエン「聖霊の御業について」)。

 しかし、聖霊がどのように御業を遂行されるのかを調べるつもりはわれわれにはない。われわれの今の目的は、この御業の主な特徴を聖書から解明することである。

 例えば、二コリント三・一八のような節から、これは段階的・漸進的であることがわかる。この御言葉の記述によると、われわれの霊的造り変えは依然として進行中である。「私たちは主と同じかたちに、栄光から栄光へと変えられていきます(変えられつつあります)。それはまさに主の霊によります」。ここで記述されているこの変化は、キリストへの段階的同形化であり、この今の人生の間に起きる。これは単なる性格の再形成以上のものであり、単なる道徳的修養や訓練よりも高いものによって生じる。それは変容である。この言葉は四つの箇所に現れる(マタ一七・二、マコ九・二、ロマ一二・二、二コリ三・一八)。この変化の性質が、われわれの主の変容の時に起きたことの中に示されている。「この光は外側から主を照らしたのではなく、主の内側から発したように思われる」。主は天の栄光でことごとく照らされた。それゆえ、信者が段階的に聖化されてゆくときに生じるこの変化は、内側から働く神の力の美徳による。「自分の時代の型や様相によって自分の思いを発展させられる代わりに、信者は自分自身の中に新しい命の源を受ける。(中略)内側からであって、外側からではない。思いからであって、この世からではない。新しいものの誕生によるのであって、古いものの成長によってではない。こうして人間性のすべての面が造り変えられるのである」(ワース)――内側から働く命の力によって、芽が花に、花が実に、ドングリがオークに造り変えられるのと同じである。この力は元々人の中にはない。それは、これまで抑えられてきて、解放しさえすれば、この造り変えを生じさせる、という力ではない。この変化の創始者は聖霊なる神である。内住する神の霊だけが、堕落した人を神のかたちに回復して、神の性質にあずかる者とするのである(二ペテ一・四)。

 聖化は、この観点から考えると、一つの過程であることがわかる。これはまた、すべての霊的発達・成長の性質でもある――信者の内側から新創造が漸進的・段階的に発達するのである。

 さて、次のことは明らかである。この意味におけるわれわれの聖化は、今生でさらなる発達がありえなくなる点に達することは決してない。それゆえ、それは決して完全であるとは言えない。神のかたちがさらに豊かに現わされる余地がある限り、この働きが完成されたとは言えないのである。


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