しかし、愛が最も高度な類の自由の秘訣であるなら、愛とは何か?どこにわれわれはそれを探すべきか?どこからそれは来るのか?どうすればそれを知り、その中に住むことができるのか?

 ある人は次のような見解を保持している。「愛の根源は人の心の奥底にある。それは神から受けたものであり、その上にのしかかる他の物の重圧を除きさえすれば、それは真に人の一部分として姿を現す」。われわれはこれに同意するだろうか?決して同意しない。

 恐れを追い出してわれわれを自由にするこの愛は、人間的な愛ではない。この愛は、もともと人の中にあるものではないし、人の内側で休眠しているわけでも、ただ目を覚まして姿を現すのを待っているわけでもない。

 「真空のように空っぽな体の上に、大気が重くのしかかっている。同じように神の律法と、律法によって御自身を啓示される神御自身とが、内側に神を持たない人々の上に重荷のようにのしかかっている」(マルテンセン)。このような圧迫感は、彼らの内に神の家族としての愛が無い証拠である。

 魂に必要なのは神の愛である。「神の愛」が「私たちの心の中に注がれ」なければならない(ロマ五・五。厳密には、「私たちの心の中の至る所に(throughout)」であって「私たちの心の中へと(into)」ではない―― en であって eis ではない。これは神の愛がわれわれの心の中で豊かに拡散することを示している。en はまた、この注ぎがなされる場所をも示している)。

 「神の愛――これは、神に対するわれわれの愛でも、われわれに対する神の愛の感覚でもなく、われわれに対する神の愛そのものである」(ネール)。

 フォーブス博士はこう述べている。「ここ(ロマ五・五)で述べられている愛は、われわれに対してたんに外面的に示される神の愛のことではなく、われわれの心の中に賜物として注がれている神の愛のことであり、他のキリスト教的恵み――忍耐と希望――と関連するものとして位置づけられている」(「ローマ人への手紙に関する分析的注解」)。

 この神の愛は「神に対するわれわれの愛となる」(ランゲ)。神の愛をこのように心の中に注入する伝達手段は聖霊である。聖霊御自身がまず魂の中に入り、次に、内側からわれわれに神の愛を知らせ、われわれの感情・目的・行動を形成する力としてそれを伝達して下さるのである(ビート)。

 「注がれている」という表現は、伝達の豊かさを示している(ソラック)。この同じ御言葉についてピリピはこう述べている。「神の愛は露の滴のようにではなく、川のようにわれわれの上に下った。この川は魂全体に広がり、神の臨在と恵みの感覚で魂を満たしたのである」。


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