しかし今やわれわれは状態に来る。霊的性質と霊的思いは異なる。クリスチャンはみな、御霊から生じた性質を有している。しかし、すべてのクリスチャンが霊の思いを持っているだろうか?

 深い重要性を持つ文脈の中で「キリストの思い」に言及している三つの節を見ることにしよう。

 「キリスト・イエスのうちにもあったこの思いを持ちなさい」(ピリ二・五)。これが述べているのは、自己に関して考える思いの状態である。それは自己を全く無視する思いだった。「彼は御自身を空しくされました」。徹底的自己抑制というこの路線に沿って、彼は御父をあがめた。彼ははっきりと「私は自分自身からは何もすることができません」(ヨハ五・三〇)とわれわれに告げておられる。つまり、自分自身からは何一つできないということである。また、「私は自分自身では何もしません」(ヨハ八・二八)。あるいは、「私は自分からは何もしていません」。「私は自分で(あるいは、自分から)話しているのではありません」(ヨハ一四・一〇)。彼は僕の立場――子の立場――を取られた。子たる身分の観念はまさに依存の観念を含む。「完全な子たる身分は、意志と行動が御父と完全に一つになることを含んでいる。(中略)『私のうちにおられる御父が御業を行っておられるのです』(ヨハ一四・一〇)。正しい読み方によると、私のうちに住んでおられる御父が御業を行っておられる、ということである」(カノン・ウェストコット)。

 今や、信者はキリストが歩まれたように歩むよう命じられる。この完全な自己否定の思いは、それゆえ、維持すべき状態である。「この思いを持ちなさい」。彼が御父のうちに御父に基づいて生きたように、われわれもキリストのうちにキリストに基づいて生きるべきである。

 われわれが正しい状態にある時、自己ではなくキリストがわれわれの存在の中心を占有される。その時、彼は内側で王として妨げられることなく統治される。筆者は、そう遠くない昔のこと、長年にわたってクリスチャンだった人が、以下の言葉を述べるのを耳にした。「私は、キリストが王であることを聞いてきました。確かに、キリストは私の中で治めておられました。しかし、それは立憲君主としてにすぎませんでした。私が首相だったのです。私が自分でかなりの働きをしていました。その後、キリストが絶対君主でなければならないことを私は見い出しました。そして今では、キリストが絶対君主なのです」。この思想の中にどれほど多くのことが込められていることか!この状態にどれほど多くのことがかかっていることか!ある意味で、すべてがこれにかかっているのである。

至高の天よりも高く、
 深甚な海よりも深く、
主よ、あなたの愛は遂に征服なさいました。
今、私の魂の願いをかなえて下さい、
 「自分からのものが何もなくなって、すべてがあなたからになりますように」。

セオドア・モノド牧師



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