では、このような状況にある人は何者なのか?聖書はこのような人をどのように呼んでいるか?このような人は「天然的」であると表現されている。「天然の人は神の御霊に関する事柄を受け入れません」(一コリ二・一四)。このような人は魂的である。これがその人に到達可能な最高の状態である。その人は、その最も高度な性質が魂である人である。天然の人は魂の人である。天然の人は自分の魂によって支配されている。それ以上高く上ることはできないが、低く沈むことはできる。悪魔的になることもありえる。その人の霊の性質を悪魔が握ることもありえる。

 この無能さの理由は明らかである。聖書はその答えを与える。「なぜなら、それらの事柄は霊的に識別するものだからです」。まさに事の性質上、これはそうでなければならない。これは、天然の人は霊の事柄を知ろうとしないということではない――知ることができないのである。

 この問題をはっきり述べると、三つの大きな領域――感覚の領域、理性の領域、霊の領域――があると言える。

 感覚の領域に属する事柄がある。低級な動物にも、人と同じように、これらの事柄を見て理解する器官が与えられている。触ったり、味わったり、見たりすることができる。これらの能力を、われわれと同じように、野獣も持っている。われわれはこれらの感覚器官により、物質界の実体的現実を確信する。

 次に、理性の領域に属する事柄がある。ここでわれわれはより高次の領域に上る――低級動物の手の届かない領域の中に入る。人だけが、推論し、結論を下し、抽象的概念を理解する能力を持っている。人だけが道徳的義務感を持っている。

 最後に、霊の領域に属する事柄がある。これらの事柄は「天然の人」――サイキカル(psychical)な人すなわち魂の人――の手にも届かない、と聖書は告げる。これらの事柄は霊の命に属するものであり、信仰によって把握されるのである。

 盲人の手に望遠鏡を置いて、遠くの星や素敵な景色を見るよう命じることは可能である。しかし、その盲人は「何も見えません」とあなたに言うだろう。まあ、その証言は正しい。同じように不可知論者はあらゆる超自然的宗教について、「自分には分からない」と主張する。その証言もまた正しい。しかしその盲人がさらに進んで、「自分には何も見えないのだから、見えるものは何もない」と主張するなら、その主張は正しくないし、その証言は無意味である。

 天然の人が霊の事柄について意見を述べる時、その意見の価値はこのようなものである。


オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館
オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館へ

コメント
トラックバック
トラックバックURL
コメントフォーム
管理者にだけ表示を許可する
プロフィール
カレンダー
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
全記事表示リンク
検索フォーム
個人のブログに関するリンク集
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

電子書籍
Glorious Secret
ジェシー・ペン-ルイス
「栄光の奥義」


The Cross of Christ
アンドリュー・マーレー
「キリストの十字架」


ランキングサイト
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ

人気ブログランキングへ ブログランキング

ブログのまどランキングへ ブログ王へ

ブログランキング【くつろぐ】

QRコード
QR
カウンター

Page Top
Powered by FC2 Blog | | Template Design by スタンダード・デザインラボ