しかし、堕落以降の人の今の成り立ちはいかなるものなのか?人は今や生まれつき「咎と罪の中で死んでいる」と聖書は告げる。つまり、人の霊的性質に関する限り、神に対して人は死んでいるのである。見たところ、人の霊的性質がなくなったわけではない。堕落以降、人は体・魂・霊の代わりに体・魂になったわけでもない。なぜなら、人は神に対して死んでいる一方で、罪に対しては死んでいないからである。

 しかし、それではユダ書一九節「…感覚的であって、霊を持っていません」はどうなのか?ここで述べられているのは聖霊のことである、とする解釈を受け入れるのを、われわれはデベットらと共に躊躇する。しかし、堕落した人は霊的性質を失ったことの証拠として、この節を強要することはできない。ディーン・アルフォードはこの御言葉についてこう述べている。「この人々は、自分たちの三部分性の一部としてのニューマ(pneuma)を実際に持たなくなったわけではない。そうではなく、霊を持ってはいるが、その価値が全くなくなったのである。それは衰退してプシュケ(psuche)すなわち人格的命の力の下に落ち込んで、それ自身の実際の活力がなくなってしまったのである」。ニューマは「人を本質的に動物から区別するものである。それは神からの(神から発した)息であり、われわれの性質の中で最も貴い部分である。しかし、天然の人の場合、それは堕落以降、肉的・動物的命の中に隠されている。それは実効上、絶え間ない罪によって肉の下に沈んで埋没しているため、まるでもはや存在しないかのようである」(ランゲ「聖ユダ書注解」。付録の注記Cを見よ)。霊の事柄を理解する能力はすっかりなくなった。堕落により、人は神と交わる能力を奪われたのである。

 それでも、堕落した人はあらゆる種類の罪を犯すことができる――体と魂に関する罪だけでなく、霊に関する罪をも犯すことができる。「霊的に邪悪なこと」を行うことができる。したがって、人には依然として霊的性質があるにちがいない。

 サタンは、人の悪を最高度に発展させるために、人の霊を必要とする。

 それゆえ、人は霊的に死んでいるという言葉の意味を、われわれは、人は神と交わることがまったくできない、という意味に理解する。この死の状態の中では、人は真に理想的な人間性に至ることができない。


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