信者は自分自身を誇ることはできない。到達した清い状態を誇って、キリスト御自身から離れて存在することはできない。信者は一塊の鉄のようである。溶鉱炉の中から出される瞬間、その冷たさ、硬さ、黒さが戻り始める。元の自然な状態に戻ろうとするその傾向性に立ち向かうものは、一度限り永遠にその鉄の中に造り込まれた御業ではなく、その鉄に対する火の絶え間ない継続的な影響である。

 これが霊の命の中にある自由の法則である。罪の法則から解放されていても、それと同時に、自分自身の生まれつきの腐敗をますます深く意識するようになって行く経験を絶えずする理由――悪に対する勝利の生活を送りつつ、極めて真実な謙遜の精神を持ち続けられる理由――を、われわれはこれによって理解することができる。

 以下はエリコット司教の「英語読者のための新約聖書注解」から抜粋した、ローマ八章の冒頭の言葉に関する注解である。

それはこの書の五章の最初の区分とは次の点で異なる。両方とも再生されたクリスチャンの状態を描写しており、両方ともクリスチャンが交わりに入る最初の時から、不滅を享受する究極的な約束の時に至るまでの全期間を網羅しているが、五章はもっぱらこの期間の最初と最後の時に重きを置いており、八章はむしろ中間期全体を強調している。専門用語を用いると、一方は主に義認について示しており、他方は聖化について示しているのである。


 ランゲ博士は、この同じ節に関して、その注解の中でこう述べている。

義認もしくは聖化との関連というこの問題が、「罪定め」という言葉の解釈にも影響を及ぼしてしかるべきである。なぜなら gar という言葉で始まる二節は、根拠を導入しているように思われるからである。この手紙におけるこの章の位置づけ、及び、その諸々の節の公正な釈義により、この語が聖化と関連していることがわかる。(義認と聖化をクリスチャン経験において切り離せないのと同じように、これは他方を全く排除することではない。)それゆえ、われわれは「罪に定められることはありません」という句を広い意味に理解しなければならない。



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