しかし使徒はこの祝福された状態の理由をこう述べている、「なぜなら、キリスト・イエスにある命の御霊の法則が、罪と死の法則から私を解放したからです」。この合一により、われわれは解放された状態の中にもたらされる。われわれは解放する力の恩恵を受ける。この時、贖いが実現されて罪から解放される。これは過去の行いの功績によるのではなく、今働いている一つの法則による――働きが決して止んだことのない法則による。一つの法則に対して、実際に、別の法則が効果的に立ち向かう。キリストとの交わり、キリストとの心と思いの合一により、この輝かしい法則のすべての恩恵が自分のものとなるあの領域の中に、人はもたらされる。この祝福された自由を経験・理解できるのは、「キリスト・イエスの中」でであり、ただそこでのみである。

 この領域の外にあるとき自分がいかなる者なのかが、七章のこの十一の節に示されている。しかし、キリストの中にあるとき――キリストの臨在の圏内にあるとき――自分がいかなる者なのかを、われわれは八章から学ぶ。

 信者はこのように、主御自身によって語られたあの簡潔ではあるものの含蓄のある御言葉を思い起こす。「私無しでは」あるいは私から離れるなら、「あなたたちには何もできません」(ヨハ一五・五)。つまり、私と交わりを持たないなら、たとえあなたの主また救い主として私を知るようにされた後でも、そうなのである。「『私無しでは』という言葉を、『あなたたちが私の中にあるようになって、私の恵みを得るまでは、あなたたちは何もすることができません』という意味にとるのは、まずい不適切な解釈である。これはむしろ、『あなたたちが私の中にあるようになった後でも、もしあなたたちが私から命と力を引き出さないなら、あなたたちは何も成し遂げられません』という意味である」(トレンチ)。

 もし一塊の鉄が話せたなら、それは自分自身について何と述べるだろう?「私は黒く、冷たく、硬いです」。しかし、それを溶鉱炉の中に入れてみよ。何という変化が起きることか!鉄でなくなったわけではないが、その黒さや冷たさや硬さはなくなる!新たな経験の中に入る。その火とその鉄は依然として別々だが、それでもその合一は何と完全なことか――両者は一つである。その鉄が話せたなら、自分を誇ることはできず、自分を明るく赤熱させ続ける火に栄光を帰しただろう。信者もそうでなければならない。自分自身が何者か、信者に問うてみよ。「私は肉的であって、罪の下に売られています」と信者は答えるだろう。なぜなら、一人のまま放置されるなら、必然的に次のことが起きるからである。すなわち、自分の肢体の中にある罪の法則の虜とされてしまうのである。しかし、キリストとの交わりの中に入って、キリストの中に住むことが信者の特権である。そして、われわれの命、清さ、力であるキリストの中で――その御霊によってわれわれの存在の各部分にまで浸透することができるキリストの中で――信者はもはや肉的ではなく霊的になる。もはや罪に打ち負かされて虜にされることはない。むしろ、罪と死の法則から解放されて、解放された状態に保たれる。罪の働きと力から解放されるこの祝福された経験は、絶え間なく継続的にキリストの中に住むことを意味する。


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