今や罪に定められることはないことを知るのは信者の特権である。自分は裁き主である神の御前に立っていると考える時でも、あるいは、御父である神の御前を歩んでいると考える時でも、罪に定められることはない。前者の場合、信者は義なる方であるキリストの中に包まれて神の御前に立つ。キリストは義なる律法のすべての要求に応じて下さった。他方の場合、信者は聖なる方であるキリストの中に住んでいる。キリストは御父の御心のすべての願いを満たして下さった。

 このように歩みつつ、信者は神を喜ばせることの幸いを知る。確かに、魂のこの状態を指して、使徒は「愛する者よ、もし私たちの心が私たちを罪に定めないなら」(一ヨハ三・二一)と述べたのである――使徒は「もし私たちがキリストにあって義とされて立つなら」と言っているのではなく、「もし私たちの心が私たちを責めないなら」と述べている――その時、「私たちは神に対して確信を持」つのである。

 次のことは注目に値する。この十一の節(ロマ七・一四~二四)で使徒パウロは、直接的にあるいは間接的に、約三十回自分自身に言及しているが、その間、一度たりともキリストや聖霊に言及していない。この節を読むとき、使徒は現在の経験の観点から述べていると仮定する必要はない。現在の確信の観点から、その当時彼の内側に現存していた二つの性質の傾向性について述べたのである。

 八章の冒頭で使徒が述べている解放を、彼は推論と理屈によって主張する。その推論・結論は、「それゆえ」という言葉によって示されている。「それゆえ今や」云々。しかし、その議論の中のどの点を、この推論の注記は指しているのか?どこにそれは遡るのか?注意深く熟読するなら、この最初の節は七章の最初の六節から生じる結論であることがわかる。

 三つの偉大な真理を彼は読者の前に示した。身代わり、一体化、合一である。身代わりの思想を彼は五章で示す。「キリストは不敬虔な者のために死なれました」(付録の注記Aを見よ)。ここでも、アダムとキリストという第一と第二の代表者の頭首権について詳説されている。

 一体化の思想を彼は六章で明らかにする。そこでは、信者はキリストと共に十字架に付けられて葬られたと見なされている。六節と四節を見よ。次に、合一の思想がある。七章冒頭でこの真理が示されている。「あなたたちはキリストの体によって律法に対して死にました。それは、あなたたちが別の方に嫁ぐためです」。この真理は最初の六つの節でのみ詳説されている。七節で乖離が始まり、合一の主題は八章一節まで再び取り上げられない。この三つの偉大な事実――身代わり、一体化、合一――の思想の進展は、「ために(for)」「共に(with)」「中に(in)」という前置詞によって示されている。新約聖書の諸々の前置詞の中には途方もない神学が込められている、と言われてきたが、これは真理である。

 「それゆえ、今やキリスト・イエスの中にある者」――法理的だけでなく経験的にも、キリストとの合一の中にもたらされた者――は「罪に定められることはありません」。


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