しかし、この自己の命には別の特徴もある。それは本質的に肉的(sarkikos)である(ロマ七・一四。付録の注記Bを見よ)。肉的と言っても、再生されていないという意味ではない。肉的な人でも御霊から生まれているのかもしれず、ただ敵対する肉の力に打ち勝つほどには御霊の照らしと聖めの力によって生きていないのかもしれない。依然として「肉にしたがって」考え、感じ、判断し、行動しているのである(一コリ三・一に関するランゲの注解)。

 「肉的」という言葉によって描写されている状態は、回心したばかりの人の未成熟な段階か、さらに進んだ信者が陥る後退した状態である。前者に対しては何の叱責もなされていない。なぜなら、天然の者から霊の者へと進むにあたって、すべての人がこの段階を通らなければならないからである。しかし後者は責めを負うべきである。使徒がコリントの信者たちに「私はあなたたちに対して、霊の人に対するようには話すことができませんでした。むしろ、肉的な者に対するように、キリストにある赤子に対するように話しました」(一コリ三・一)と記したその書きぶりから分かる通りである。

 「彼がここで述べているのは、世人とは異なる者としてのクリスチャンのことではなく、他のクリスチャンとは異なる者としてのクリスチャンの一つの集団のことである」(ホッジ)。

 これが、自分自身の中にある時の、すべての信者の描写であり、使徒の描写ですらある。そして、キリストとの交わりの外に生きる時、信者の経験はこのようなものである。肉的な原則もしくは肉の原則が優勢になる。信者はもはや霊・魂・体ではなく、むしろ体・魂・霊である。順序が逆転して、最も低い原則が支配的になる。

 交わりに関して「キリストにある」ことは、個々の人の霊が神の御霊によって捕えられること、あるいは握られることである。このようにしてわれわれは神との調和の中にもたらされるだけでなく、神の力と結合される。われわれが自己の命の中で打ち勝とうとする時に欠けている能力は、キリストの命の中ではもはや欠けていない。これは罪と死の法則から解放されることである――これは霊的に気を付けるべきことである。


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