「私自身」――「キリストから得る助けから離れていて、それと敵対している」(「新約注解」、エリコット司教編)――私自身は二つの反対の傾向性、二つの性質の間の内的葛藤の惨めな状態を意識している。一方の性質は善なるものである律法に同意して、それを喜び、その要求を満たすことを願っている。他方の性質は私を反対の方向に引っ張り、さらに強力であって、実際に私を罪の法則の虜とし、こうして罪定めの状態という結果になる。

 「自分自身の中にある私」。「この句はローマ七・一四~二五全体に対する鍵である。聖パウロは、一四節から二四節で、自分自身の中にある者としての彼自身について述べたのである」(コニーベア&ホーソン)。

 「それゆえ、今や罪に定められることはありません」。「『ありません』というこの言葉は」、フレデリック・ルイス・ゴデット教授がフランス語で記しているところによると、「キリスト・イエスの中にいない者の頭上には、一種類以上の罪定めがとどまることを示している。第一に、律法を破ったことによって引き起こされた神の不興である――ローマ人への手紙の最初の三つの章で描写されている御怒りである。続く二つの章がわれわれに示しているのは、キリストの血によって、そして、御許に行くことに同意してそこで赦しを得る信仰によって、この罪定めが取り除かれるということである。

 しかしもし、その後、罪がその魂の主人であり続けるなら、罪定めが間違いなく甦る。なぜならイエスが来られたのは、われわれを罪の中で救うためではなく、罪から救うためだからである。魂を健康にするのは赦しではない。それは救い、聖さの回復である。赦しを受けることは、神に似た者となることに何の影響も及ぼさない。聖さだけがこれをなす。赦しは救いの入口であり、それによって回復が始まる手段である。健康自体が聖さである。

 それゆえ、取り除かれるべき最初の罪定めが、過ちとしての罪によって生じた罪定めである以上、この最初の罪定めがぶり返さないようにするために必ず取り除かれなければならない第二の罪定めは、力としての、内側に造り込まれている意志の傾向性としての罪によって生じた罪定めである。そして、聖パウロが『キリスト・イエスにある命の御霊の法則が、罪と死の法則から私を解放しました』とここで描写しているのは、この第二の罪定めの除去の事である」。

 この「私自身」の命の中では、悪い傾向性が優勢である。それゆえ、新しい性質――内なる人もしくは霊の思い――でわれわれは神の律法に仕えているが、それにもかかわらず、われわれは打ち負かされて、実際に罪の法則の虜とされてしまう。このような生活は、必然的に、日々罪定めを経験する生活にならざるをえない。


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