しかし、これで「キリストにある」という句の意味が尽きたわけではない。また、これはローマ人への手紙のこの八章の冒頭における使徒の宣言で理解すべきことの全てでもない。この文章にはまた――

 交わりの思想も含まれている。「キリストにある」ことは、この意味で言うと、彼の恩恵を意識することである。これは立場の問題ではなく、経験の問題である――そして依然として感覚の問題ではなく、信仰の問題である。われわれはキリストの中に「住む」よう命じられている。しかし、われわれの法的立場に関係しているのは勧めの問題ではありえない。キリストにある立場に立った者たち――義とされている者たち――は今や、聖化のためにキリストの中にとどまり、宿り、住む必要がある。われわれの経験と歩みに関係しており、われわれの聖化とも関係しているこの「キリストにある」は、聖書が常に勧めている問題である。

 ああ!キリストの中に住んでいないおそれがあるのである。そして、信者が住むことを止める時、何が起きるのか?その時、信者は自己の命を生きるようになるのである。宗教的な自己の命というものがある。救いをもたらすキリストを知る知識を持っている人々でさえ、あまりにも頻繁にこの命を現わしているのではないだろうか?義認に関して「キリストにある」ことの何たるかを明確に理解していたとしても、聖化に関して「キリストにある」ことがどういうことかについては、依然として多くの暗闇と困惑がある。多くの人は真実な目的を持っており、キリストに栄光を帰すことと、キリストに似た者にされることを求めている――彼らには心からの熱心な願いがあり、聖さを求めて絶えず精力的に努力している――それにもかかわらず、彼らは絶えず失望しているのである。彼らは至る所で失敗と敗北に出会う。彼らが努力していないからではないし、奮闘していないからでもない――彼らはこれをみな行っている――しかし、彼らの生きている命は本質的には自己の命であってキリストの命ではないからなのである。

 彼らは罪定めの中にもたらされる。これは、彼らの肢体の中にある「罪の法則」が彼らの新しくされた性質よりも強い事実から生じる。

 キリストの中に住むのをやめる魂は「自分自身」の命を生きる。「キリスト・イエスにある者たち」という言葉は、七章の最後の数節の主題である「自分自身の中にあるありのままの私」という表現と対比を成す(ゴデット)。


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