それでは、福音は何を提供するのか?別の試練を提供するのか?人に第二の試験を課すことか?そのような類のことではない。その知らせの重点は試験ではなく贖いである。

 一つの例を挙げよう。ここに多くの枝を持つ一本の木がある。その根を切ると、何が起きるか?死である。死はその茎の中に入り込むだけでなく、木全体に及ぶ。すべての枝、すべての葉に影響を及ぼす。

 アダムにある古い立場を改善することを提案するのは、枯れた木の分かれた枝々の中の命を生き返らせようとする空しい努力のようである。

 福音は新創造を宣言する。新しい木――新しい根との合一――新しい株への接ぎ木を宣言する。「だれでもキリストにあるなら、その人は新創造です」(二コリ五・一七)。これは古い立場を改善することではなく、新しい立場に移されることである。

 別の例を挙げよう。ここに商売に失敗した一人の人がいるとしよう。彼は絶望的破産状態にあるだけでなく、その信用は消え失せ、その名は地に落ちた。自分の立場を挽回しようとする彼の努力はすべて、全く不毛である。その方面で立ち直る望みは全くない。しかし、別の方面から彼に望みが臨む。商売の世界で高名な人によって、彼が共同経営者にされたとしよう。彼は裕福で立派な会社の共同経営者になる。その会社が彼の負債をすべて支払い、その過去は抹消される。しかし、それだけではない。彼は全く新しい立場を得る。彼の昔の名は退けられ、忘れ去られ、永遠に葬られる。彼には今や新しい名がある。この名によって彼は自分の全ての商売を行う。彼の昔の名は決して再び口にされることはない。

 これは福音が与えるものの微かな影である。キリストにある信者であることは、われわれの古い立場を去らせたということである――われわれの昔の名を失ったということである――そして、全く新しい立場の上に立つことである。われわれは「主イエスの御名の中へと」バブテスマされている。われわれは「キリストにある」。

 「それゆえ、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることはありません」。これは信者に段階的に臨む特権ではない。それは一度に丸ごと完全に臨む。そして、この移行が起きる瞬間、信者は審査される立場にではなく、贖いの立場に立つ。

 この真理は根本的である。「キリストにある」この立場は、すべての実際的聖さの基礎であり、すべてのクリスチャンの奉仕の基礎である。われわれはここから始めなければならない。さもないと、聖潔の道を一歩たりとも歩むことはできない。


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