われわれは皆、習慣の力を認めている。過去の数々の行動、特に度々繰り返された行動は、今日われわれの中にある実際の力であることを、われわれは経験的に知っている。「現在は過去の結果である」。習慣は、頻繁に繰り返すことによって獲得された力・能力である。最初は難しくて、不完全にしか行えなかったことも、習慣によって容易になり、十分にできるようになる。

 それゆえ、習慣は後天的力であり、繰り返された行動の結果である。それは第二の天性のようであることがしばしばである。

 これから明らかなように、われわれは習慣を生じさせるものを受け継いではいるが、習慣は生まれつきのものではない。それゆえ、悪い習慣を、アダムの全ての子らがこの世に生まれる時に帯びている諸々の罪深い傾向性と混同してはならない。この罪深い傾向性は生まれつきだが、罪深い習慣はうまれつきではない。

 「人は数々の習慣の集大成である」。しかし、人の行いは単なる習慣を超えたものの所産である。おそらく、習慣がわれわれの日常生活の上に及ぼす力は、どんなに強調しても強調しきれないだろう。しかしそれでも、先天的傾向性と後天的習慣との明確な違いを認識することは極めて重要である。悪い習慣をみな取り除くことは可能かもしれない。どんな習慣の力からも完全に解放されることは可能かもしれない。しかしこれは、罪への傾向性がそれによって根絶されることを意味しない。

 さて、後天的習慣と諸々の欲望との間には、とても緊密な関係がある。「もし一組の悪い習慣が個人の成長と共に成長するなら、あるいは、悪い傾向性が一つでも習慣的行動の源となるのを許すなら、それらの習慣に対抗してその行いをやめるには、遥かに強固な意志の力が必要となる。これが特に言えるのは、習慣的考えが情緒的性格を帯びて、諸々の欲望の源となる時である。これらの欲望に屈するほど、それらの及ぼす誘惑は強くなる。そして最終的に、抵抗力がほとんどなくなってしまうほど、自我はすっかりそれらの欲望の虜になってしまうかもしれない。また、欲望が自らに基づく行動によって力を増すにつれて、その人の意志は屈服する習慣によって弱められてしまう」(カーペンターの「精神心理学」)。

 このように「習慣によって、情動はその実体を建て上げて、肉体的器官だけでなく霊的器官をも、罪に役立てるために行使する」(マルテンセンの「キリスト者の倫理」)。「習慣と情動が結合したものが悪徳である。それにより、人はある特定の罪に対する奴隷となってしまう。日常生活で話をするとき、世人の目前で人に不名誉を被らせる諸々の罪のことだけを悪徳と称することに、人は慣れ切っている。例えば、飲酒、盗み、不貞、その他同様のことである。同じように、『非難の余地がない、染みのない歩み』という句で人が理解するのは、大抵の場合、社会的公義という衣服の上に何の染みもない、ということだけである。

 しかし、人に対してこのような支配権を獲得して、人をその奴隷とするすべての罪のことを勝手に悪徳と称してはならないのではないだろうか?高慢、妬み、悪意、噂話(悪口)、無慈悲を悪徳と称してはならない理由があるだろうか――これはつまり、それらのものがその人に対してそのような支配権を獲得して、その人が自分の自由を失う場合である」(同上)。


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