キリストが「私たちのために御自身をささげられたのは、私たちをあらゆる不法から贖うため」(テトス二・一四)だった。つまり、キリストが御自身をささげられたのは、敵の力からわれわれを贖う代償としてだったのである。不法はここでは、その支配からわれわれが解放された者の力と見なされている。しかし、これだけがキリストの死の目的ではなかった。「特別な民を、御自身のものとして清めるためです」等々。キリストが死んで贖った人々を清めることも、その犠牲の目的である。そして、両方の祝福を同じ方法で受け取ることができる。

 第一の祝福をつかんだ人のどれほど多くが、第二の祝福を理解しそこなったように思われることか!

 赤い雌牛の「灰」を汚れた人に適用しなければならなかった。それらの灰の中に、「そのいけにえ全体の不滅の残滓」がある。いけにえが完了した後、それらの灰の中に血が含まれていた。それらを汚れたイスラエル人の清めのために利用することができた。その犠牲の死は繰り返されなかった。なぜなら、そのいけにえは「一度限り」のキリストの死を指し示していたからである。しかし、その灰は無限に適用するために取っておかれた。それによっていけにえの効力が適用された「分離の水」は、水だけではなく、その「灰」で満ちた水だった。汚れた者は、これらの灰を含んだ水を降り注がれたのである。

 この霊的意義は何か?何をそれは指し示しているのか?一つは赦しのため、もう一つは清めのため、というように霊的救いの二つの源を指し示しているのではない。その水を聖霊の予表として見るにせよ、あるいは御言葉を示すものとして見るにせよ、予型的真理の全ての路線がここで収束する一つの中心点は、キリストの血あるいは死である。これがヘブル書九章の論理ではないだろうか?

 旧約聖書の儀式が祭儀上の汚れに関するものを清めたのだとすると、「なおさらキリストの血は(中略)あなたたちの良心を死んだわざから清めて、生ける神に仕える者としないでしょうか?」(ヘブル九・一三~一四)。

 ある人々が主張しているように、この型の中の水は聖書のことである、と主張することもできる。これはその血の効力を損なうことではない。この水がその灰――その血を含んでいる灰――を運んで、汚れている人をその血との接触にもたらした――だから今や、われわれをキリストの血にもたらすのは御言葉なのである。しかし、御言葉はわれわれの清めの泉ではなく、われわれをその泉へともたらすものにすぎない。罪のための、そして汚れのための泉は一つしかない――それはキリストの十字架である。

 それでは、キリストの十字架の清めの力を知るには、何が必要なのか?あるいは、別の言い方をすると、どうすればわれわれの心、思い、内なる意識は、罪の汚染する影響から分離されうるのか?ただこの幸いな事実を理解することによってである。すなわち、キリストはわれわれを罪の汚れから分離するために死なれたという事実である。

 どんな汚れでも、それから清められることは、それから分離されることに他ならない。キリストの死以外の何物も罪から分離することはできない。この死の事実及び目的は、彼の御言葉の中に啓示されている。われわれをこの死に同形化することが、御言葉による聖霊の職務である。これは罪のためのキリストの犠牲の贖いの効力によってもたらされた自由と同じように、その清めの力の解放を知ることである。


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