不幸なことに、たとえキリストの死は罪のための贖いに十分であることを理解していたとしても、その死は罪からの個人的清めの秘訣・源でもあることを見落としているおそれがある。

 罪はわれわれの上にのしかかる重荷や、われわれの上に処罰的結果をもたらした違反であるだけではない。それは、われわれを神の臨在にふさわしくない者とする汚れである。重荷が去ったこと、咎が贖われたことを、われわれは喜んできたかもしれない。しかしそれでも、キリストの清める力を少ししか知っていないかもしれない。たった一つの不従順な行いのせいで、われわれはわれわれの主との交わりから放逐されているかもしれない。われわれはこのようにして、咎だけでなく汚れをも意識するようになった。

 旧契約の下におけるイスラエルに対する神の取り扱いの中に、これがどれほど鮮やかに示されていることか!

 例えば、レビ記を読む時、祭儀上の汚れから分離される必要性が強調されていることに衝撃を受けずにはいられない。そこで与えられている諸々の指示の中に、エホバがどれほど妬みをもってこの件で御民を見張っておられるのかにわれわれは気づく。食物、衣服、習慣、他の家庭内の決め事に関して、事細かい指示がなされている。これはみな、単なる物質的・祭儀的事柄よりも遥かに深い意義があったことを、われわれは知っている。福音の光の中で、われわれはそれらの完全な真の重要性を学ぶ。

 汚れというこの問題全体を見渡す時、汚れは二つの異なる源から生じることにわれわれは気が付く――外面的源と内面的源である。

 内側から生じた汚れが、レビ記では主に述べられている。これは内住する悪から発する道徳的汚れと関係している。また、死と外面的に接触することを通して、内側から生じた汚れは、民数記でさらに顕著に示されている。そこでは、世との接触によって引き起こされた汚れの諸々の効果の型が示されている。

 前者の内側から生じる汚れに関して言うと、その最も顕著な絵図がらい病人によって示されている。この恐ろしい病ほど、昔のイスラエルに罪のおぞましい性質を力強く印象付けられるものは何もなかった。

 そのような者は聖所から追放されることになっていた。その人は神礼拝から締め出され、神の民とのあらゆる関係から追放された。

 無視して意図的に、あるいは無意識のうちに、死と接触を持った人も同様である。その人は直ちに祭儀上汚れた者となり、贖われた礼拝者のすべての特権から「断ち切られ」た。

 これは今でもそうではないだろうか?

 これらの型の本体は魂の肖像である。祭儀上の汚れと清めは、霊的汚染と、福音の中でわれわれに啓示されている清めを示していたのである。

 信者の交わりの停止は、その構成員をイスラエルの会衆から断ち切ることに相当する。

 こうしたすべての福音の絵図的描写により、神は御自分が贖った民に次のことを教えておられたのである。すなわち、神は御自身のものとした人々や、その間に御自分の住まいを定めた人々に対して、いかなる汚れも容認できないのである。そして、神は御自分の民に聖くなることを要求されたがゆえに、神は彼らのために特別な備えをされたのである。


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