律法からの自由は御霊による統治を意味する

 さて、サタンは一つの路線で挫折しても、決して諦めません――別の路線を試します。サタンは大いなる策師であり、彼のお気に入りの路線は極端に走らせることです。ガラテヤの信者たちの間で、サタンは律法主義を極端に走らせようとしました。しかし今、サタンはこの路線から退却します。パウロがこの戦いに勝利しました――これに疑問の余地はありません。敵の次の攻撃方法は何でしょう?敵は言います、「よろしい、では、律法を持ちたくないというなら、いかなる律法も持ってはいけません。律法をすべて捨ててしまいなさい。『あなたたちはもはや律法の下にいるのではなく、恵みの下にあるからです』――あなたは何でも好きなことができます!好きなように振る舞うことができます。自分の好きなように続けなさい。あなたにはいかなる制約、制限もあってはなりません。いかなる制限も律法です――それを拒否しなさい!このもう一方の極端に走りなさい――律法の代わりに自由奔放に至りなさい!」。私は信じていますが、もし今日パウロが生きていたら、彼は律法に対して激烈に反対したように、この自由奔放さに対しても激烈に反対するでしょう。なぜなら、まさにそこにサタンの働きがあるからです。サタンは律法によって束縛することができないと、このような方法で物事の性質を一変させ、あらゆる律法を廃棄して、私たちをまったくの無法にしてしまうのです。

 しかし、覚えておいて下さい。このガラテヤ人への手紙は御霊の自由に関する手紙であるだけでなく、御霊の統治に関する手紙でもあるのです。私たちが自由を得るのは、統治されている時だけです。私たちが時々歌うジョージ・マテソンの有名な歌詞はこう述べています。

「私を虜にして下さい、主よ。
その時、私は自由を得ます。」


 これは矛盾です――しかし、大いに真実です。自由奔放を許すとき、そこまで自由が度を超す時、私たちは自由ではなくなります。そうです、この手紙とローマ人への手紙とヘブル人への手紙は無法の書ではありません。たとえこれらの手紙がユダヤ教の体系全体を排除していたとしても、無法の統治を導入しているわけではありません。聖霊の命と統治を極めて明確に導入しているのです。覚えておいて下さい――聖霊によって統治されていて、御霊の命によって実際に生きている神の子なら、神のいかなる原則も破ることはありません。実に、聖霊によって統治されている生活は、霊的な数々の原則に関していっそう慎重に注意を払うものなのです。


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