キリスト教の本質である霊的性質

 さて、皆さんご存じのように、このガラテヤ人への手紙には、パウロの凄まじい戦いが記されています。そうです、パウロはこの手紙の執筆に取りかかった時、戦おうとしていたのです。パウロが記した文書の中で、この手紙に記されていることほど激しいものはありません。しかし、何に対する戦いだったのでしょう?一体何についての戦いだったのでしょう?もちろん、この問いに対する神学的・教理的答えもいくつかあります。しかし、この手紙そのものや新約聖書の他の箇所からの多くの証拠があるので、「このパウロの戦いは完全に、キリスト教の本質である霊的性格と関係していた」と言うことができるでしょう。本物のキリスト教であるキリスト教は、本質的に霊的なものなのです。この戦いはこれに関するものでした。どの文脈からも明らかにわかるように、十字架は霊的立場に、霊的状況に導きます。

 この大いなる敵は、ユダヤ主義者という非常に有用な道具を用いて、キリスト教を霊的なものではないものにするために戦っていました。教会を霊的立場以外の立場にもたらそうとしていたのです。ですから敵は、その時からずっと、キリスト教を儀式や祭典の問題――儀式、形式主義、地的で一時的な象徴、肖像、絵図など――にしようとしてきましたし、それに失敗すると、キリスト教を「神秘主義」という御大層な名前の誤った霊性で置き換えようとしてきました。これがサタンの狙いでした。そして、この問題には現実的意味があることをパウロは見抜いたのです。その現実的意味とはキリスト教の本質的性質でした。パウロはこの問題を諦めませんでした。なぜなら、この問題に関して彼には膨大な経験があったからです。それゆえ、彼は持てる力の限りを尽くして、この問題に対して戦闘態勢を取りました。それは、キリスト教は断じて地的組織ではないこと――キリスト教は天的生活であること――を完全に明らかにするためでした。キリスト教は本質的に御霊による生活であり、十字架の目的はそのような生活を生み出すことです。もし十字架がそのような生活を生み出さないなら、当人たちの中に何か原因があります。それは、キリスト教の性質が一変してしまったこと、そして十字架の意義が覆されてしまったことを意味します。

 ですから、パウロは十字架のあらゆる力を用いて、敵のこの巧妙な動きに向かって突進し、手に握れる限りの武器を持ち込みます。こうした武器とは何でしょう?


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