(2)復活の力を積極的に活用すること

 次に、私たちは「キリストの復活の力」(ピリピ三・十)に対して常に積極的な姿勢を取らなければなりません――「死人を復活させる神」(二コリント一・九)を信じる姿勢を持たなければなりません。キリストの復活の力が示す、この「別の」ものや、この「他の」ものを、私たちは計算に入れなければなりません。状況がその通りのものであることは事実です。私たちは目隠しをしているわけではありませんし、「自分はそれほど悪くない」とか、「状況はそれほど悪くない」と思い込ませようとしているわけでもありません。状況は内側も外側も最悪であることを私たちは知っています。しかし……何かそれ以上のものがあるのです――まったく並外れた要素があるのです。その要素とはキリストの復活の力です。これに対して私たちは常に大いに積極的な姿勢を取らなければなりません。

(a)個人生活に関して

 これは実際的には、キリストの復活の命をしっかりと活用することを意味します。しかしだからといって、神の数々の法則を破ってもよいわけではありません。例えば、あなたが一日に三~五回の集会で話をし、一日も休まずに、それを十一週間ほど続けるなら、あなたは神の法則を破ることになります。神はあなたを守って下さらないでしょう。まさにこれが起きたことを私は知っています。こうした学課を学ぶのに、どれほど長い時間がかかることでしょう!時には一生かかることもあります!必要や訴え等によって、私たちは駆り出されてしまいます。私は信じていますが、主は大いに同情して下さるでしょうが、それにもかかわらず、ご自分の法則を撤回されることはないでしょう。ですから、私は言わなければなりません。私たちは神の法則、自然の法則、体の法則を破ることを避けなければなりません。(神について示唆せずに、自然法則について述べることはできません。自然法則は神の一つの表現だからです。神ご自身が自然界の最高の法則です。これは汎神論ではありません。自然法則はあなたをただちに神との接触にもたらす、ということです)。神の法則や体の法則などを破ってはなりません。他方、私たちは常に細心の注意を払って、キリストの復活の命を活用しなければなりません。私たちはこれを行わなければなりません。私たちは言わば、主の復活の命をしっかりと握り、それを活用して、それを大いに実際的なものにしなければなりません。

 私が少年だった時、母は今も私の心に残っている話をしてくれました。母は祖父の死について私に教えてくれました。祖父が亡くなった時、祖父は八十四歳の老人でした。祖父がゆっくりゆっくりと死に近づいていた時、母は祖父のベッドの横に座り、祖父の手を握っていました。祖父は体の頑丈な人で、母は私にこう話してくれたのです。「おじいちゃんは、ママの手を強く握りしめたの。ママはおじいちゃんのために祈っていたけど、おじいちゃんはだんだん弱くなっていったのよ。でも、おじいちゃんはママからまるで命を吸い取っているようだった。まるで自分の命を吸い取られているように感じたのよ。おじいちゃんはママから何かを引き出して、命にしがみつこうとしているみたいだった。でも、ついにママはそれ以上我慢できなくなって――おじいちゃんから手を離してしまったの。その時だったわ、おじいちゃんが亡くなったのは」。

 さて、この話が科学的にどれくらい正しいかはわかりません。しかし、私にとってこれは一枚の絵図です。私たちは私たちの主の活力を文字通り活用しなければなりません。これは一つの姿勢であり、信仰によって握ることです。パウロがテモテに言ったように、私たちは「命を握」らなければなりません(一テモテ六・十二)。これは私たちが行うべきことです。

 復活した主との関係というこの問題に関して、私たちはあまりにも曖昧なのではないかと、私は恐れています。私たちは復活を信じ、復活の命を信じ、復活の命が自分のためであることを信じています。しかし、私たちはそれについてあまりはっきりしていないのです。私たちはまず自問しなければなりません、「私は復活の命を必要としているのでしょうか?キリストの復活の力を必要としているのでしょうか?」。もちろん、もしその必要性を感じていないなら、あなたがそれについてはっきりすることはないでしょう。しかし、もし何らかの方法で、キリストの復活の力の必要性を本当に感じているなら、主の御腕がそのような方法で自分に対して現される必要性を感じているなら、さらに次のように自問して下さい、「この命が私のためであると信じることを正当化する書や神の御言葉の文章はあるのでしょうか?」。次に、この問いに対する答えが「然り」であると信じるなら、こう自分に言い聞かせて下さい、「御言葉に行き、御言葉がこれについて何と言っているのか調べることにしましょう。この復活の命の問題について神の御言葉が述べていることを、すべて掻き集め、探り出すことにしましょう――自分のために!」。

 訓練としてこれを行って下さい。でたらめに御言葉を拾い上げるのではいけません。自分の足下に強固な御言葉の基礎を据えて下さい。「イエスを死者の中から復活させた方の御霊があなたたちの内に住んでいるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたたちの内に住んでいる御自分の御霊を通して、あなたたちの死すべき体をも生かして下さいます」(ローマ八・十一)。この御言葉は聖書に記されています!「絶えずイエスの死をこの身に負っていますが(中略)イエスの命もまた、私たちの死すべき体に現されるためです」(二コリント四・十、十一)。これは御言葉です!このように見いだせるものをすべて集めて、それを主のもとに持ち出して、こう言って下さい、「主よ、あなたの御言葉は次のように明らかに述べています……」(お望みなら、ここで御言葉を主に引用することもできます。主に御言葉を思い出してもらうことは、大いに健全なことです)。「さて、主よ、あなたは『私の民、私の信者は、この復活の命を現在の経験として知らなければならない』と言われました。ここに、それについてのあなたの御言葉があります」。御言葉を主に持ち出しなさい。見いだしうるあらゆる御言葉を主に示しなさい。この問題に対して断固たる姿勢を取りなさい。これに対してもっと断固たる姿勢を取りさえするなら、私たちは驚くべきこと、素晴らしいことを見ることができ、復活の命に関する遥かに大いなる証しを得ることができるでしょう。それは自然に「起きる」ことではなく、偶然のものでもありません。これに関してぐずぐずしているなら、決してその恩恵にあずかることはないでしょう。私たちは積極的でなければなりません。断固たる姿勢でいなければなりません。私たちはこれを大いに実際的な問題としなければならないのです。

 なぜなら、これは個人の問題ではなく、自分自身の個人的益のためでもないからです。私たちの復活した主の証し全体がこれと関係しています。もちろん、神に感謝すべきことに、この復活の命を個人的に適用する必要があります。この適用は霊に対するものかもしれませんし――なぜなら、私たちはみな個人的に、この命に霊的な方法で絶えず新たに近づく必要が確かにあるからです――肉体に対するものかもしれません。神はほむべきかな、私たちは自分の体のために命を得ることができます!復活の命は私たちを物理的に運んで、数々の不可能な状況をくぐり抜けさせることができます。これを私たちは経験することができます。あるいは、もしかすると、新たに命に近づくことが必要かもしれません。私たちの務めに「主の御腕の現れ」が必要かもしれません。なぜなら、あらゆる務めは、それが真の霊的務めである限り、キリストの復活の力によって成就されなければならないからです。


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