この基礎の上に置くことを神が許されるもの:愛

 さて、積極的なものについてです。神が「然り!」と仰るものを挙げることにしましょう。神は様々な事柄に対して「否」と言われます。しかし、ここで、神の「然り」は何に基づくのでしょうか?それはこれです――愛です!

 「愛は辛抱強く……」。自分の権利を傷つけられたり、取り上げられたりしたために、自分の兄弟たちを直ちに裁判官の前に引きずって行った人がいました。「愛は辛抱強く、親切です……」。愛をこの基礎の上に置くことができます。愛は建設的なものではないでしょうか?「愛は妬みません……」。このような節を一つずつ静かに読み進む時、あなたは立ち止まってこう言いたくなるのではないでしょうか?「これ以上言わないで下さい。この御言葉は私を徹底的に暴露します」。しかし、私たちは進まなければなりません。なぜなら、結局のところ、神が求めておられるものは愛だからです。

 「愛は誇らず、高ぶりません……」。八章の最初に戻ると、こう記されています、「知識は人を高ぶらせますが、愛は建造します」。「誇ること」と「建造」との間には、大きな違いがあります。「愛は高ぶりません」。愛には間違い、不自然さ、見せかけ、フリはまったくありません。この過ちはゴム風船のようです。かなり大きく膨らませることができますが、ごく小さな針先で突くなら――どうなるでしょう?なくなってしまいます。「そのようなものを神の基礎の上に置くことは無駄である」とパウロは述べています。

 「愛は不作法をせず……」。不作法について、もっと多くの時間を費やすことができるのではないでしょうか?不作法は上品なことでしょうか?不作法はクリスチャンにふさわしいものでしょうか?不作法は主イエスにふさわしいものでしょうか?不作法は聖なる神の家にふさわしいでしょうか?「愛は自分の益を求めず……」――愛は自分の道を行くことを望まず、自分の目的を行いません。愛は自分に引き寄せることをしません。「愛は怒らず、悪を気にせず、不義を喜ばないで、真理を喜びます。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてのことを忍耐します。愛は決してしくじることはありません……」。

 私があまり話していない、とあなたは思われるかもしれません。しかし、私は大いに話しているのです。私はあなたに以下の節を示したいと思います。この節は翻訳されたものであり、古典的だと思います。

 「たとえ私が人々や御使いたちの言葉で話せたとしても、愛がないなら、私はやかましいどらや鳴り響くシンバルと同じです。たとえ預言することができ、あらゆる奥義や秘密の教えを理解し、山々を動かすほどの絶対的信仰があったとしても、愛がないなら、何の役にも立ちません。たとえ慈善のために持ち物をすべて与え、私の体を焼かれるために渡したとしても、愛がないなら、無益です。愛はとても忍耐強く、とても親切です。愛は妬みません。愛は誇らず、高ぶらず、決して不作法をせず、決して利己的ではなく、決していらつかず、決して憤りません。他人が間違いを犯す時、愛は決して喜びません。愛は善を喜びます。愛は常に悪を暴くのに遅く、常に熱心に最善を信じ、常に希望に満ちあふれ、常に忍耐します。愛は決して消え去りません」。

 愛はこの基礎の上に置くことができます。なぜなら、神は愛に対してまったく「然り」と仰るからです。誰に対して主の御腕は現されるのでしょうか?愛に対してです。まさに愛に対してなのです。

 十字架は何を排除し、何をもたらすのか、この問題に私たちは直面しなければなりません。この必要は大いに差し迫っています。神の基礎の上に置くことを何が許されており、何が許されていないのでしょう。これは私たち全員にとって大いに深刻な問題です。最後に残るものは何でしょう?今は人目を引き、人気があるかもしれません。また、人はそれを承認して称賛しているかもしれません。しかし、それにもかかわらず、それは残るものではないかもしれないのです。神は建造のために動いておられます。建造のために用いることができないもの、建造のために用いないものを、神は示しておられます。神は言われます、「これを私は用います。これが私の教会を建造する材料です。これこそ真に建造するものです。『愛は建造する』のです」。

 もし必要なら、主が私たちの心を打って下さり、真に価値あるものとは何なのか、私たちの心を照らして下さいますように。霊的賜物といえども、信者たちの間に真の霊的増し加わりという影響を及ぼさないなら、真に価値あるものではありません。これが試金石です。大事なのは賜物自体ではありませんし、その存在でもありません。また、主が賜物をお与えになったという事実すら、大事なことではありません。あらゆる賜物に関する試金石は、「それは本当に教会を建造するものなのでしょうか?それは本当に神の家を建造するものなのでしょうか?それは本当にキリストの度量の増し加わりという結果になるのでしょうか?」ということなのです。

 なぜなら、霊的賜物がキリストの邪魔になることもありうるからです。コリント人へのこの手紙は次のことを大いに明らかにしています。すなわち、霊的賜物を持っていたとしても、それは霊的成熟に達している保証ではないのです。コリントは諸教会の中でも最も未熟な教会でした――パウロは言います、「私はあなたたちを乳で養いました。あなたたちは依然として赤子だからです」――それにもかかわらず、コリント人たちはこうしたあらゆる賜物によって特徴付けられていたのです。賜物が悪いわけではなく、横道に逸らされていたのです。当初の目的のために用いられていなかったのです――当初の目的はキリストの完全な度量をもたらすことでした。これが目的であり、この目的は愛によってのみ達成されえます。

 どうか主が、このような愛を私たちに与えて下さいますように!これは天然的な愛ではありません。この愛は十字架から発します。これは十字架が私たちの内に働くことによって生じる愛です。懸命に追い求めても、この愛を得ることはできません。しかし、十字架が私たちの心の中に、また私たちの性質の中に、その働きを行う時、この愛は芽生えて成長します。主は私たちの愛を増し加えて下さいます!


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