霊的賜物の誤用

 そこで十三章を見ることにしましょう。使徒はここで霊的建造の役に立たないものについて記しています。それは神から与えられたものかもしれませんが、人がそれを握って、人の満足、喜び、楽しみ、栄光のために用いてしまったのです。生まれながらの人の精神や感情が神聖な事柄――異言などのような霊の賜物――に影響を及ぼして、建造に役立てるのではなく、ただ誇示するための機会にしてしまったのです。人々はこうした霊の賜物を誇っていました。使徒はここでそれをすべて書き記して、「それらの賜物が与えられたのは決してそのようなためではありません。たとえ神から与えられたものであったとしても、建造に関する限り、それは『無』という結果になるのです」と言います。「無」という言葉を彼はここで用いています。「もし愛がないなら、私は無です」。パウロはこうした賜物を退けます。しかし、注意して下さい。彼は常に消極的なものを通して積極的なものに至るのです。

 「たとえ私が人々や御使いたちの言葉を語っても、もし愛がなければ、私はやかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じです」。神の家を建造するという目的を果たすことに失敗した霊の賜物は退場しなければなりません。この目的に役立たないものに固執しないようにしましょう。

 「たとえまた、私に預言する賜物があり、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、また、山々を動かすほどの強い信仰があっても……」。これはとても聖書的です――これは主イエスが言われたことです、「もしからし種一粒ほどの信仰があるなら、この山に向かって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るでしょう」(マタイ十七・二十)。これは完全に聖書的です。しかし、完全に聖書的であって、このような信仰があったとしても、無にすぎないことがあるのです。もし神の家の建造に失敗するなら、もしこの聖書的構造体という結果にならないなら、それは消極的なものになってしまいます。奥義に関するあらゆる知識、秘密の教え、山々を動かす信仰といえども、出て行かなければなりません。「もし建造しないなら、出て行きなさい!あなたの価値は無です!」。「強い信仰があっても、愛がないなら、私は無です」。そうしたものがすべてあっても、私は無なのです!

 「私が自分の持ち物をすべて貧しい者に与え、私の体を焼かれるために渡したとしても……」。たとえ私が慈善家で、極めて寛大であり、犠牲を払ってまで与えたとしても、また、私が殉教者で、自分の体を焼かれるために渡したとしても、神の家を建造する役にはまったく立たないかもしれないのです。たとえ私がこうしたことをすべて行ったとしても、「愛がなければ、何の益にもなりません」。


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