キリストの高揚と立証

 しかし、ここで少しの間戻って、二つの点を考えなければなりません。この時点で、「主の御腕は誰に現されるのか?」という疑問が生じます。この章の残りの部分は、この問いに対する答えです。主のこの御腕は現状に介入する神であり、技能、力、知恵、能力をもって介入し、状況を取り扱い片づけます。十字架はこの全体的状態に対抗して介入する主の御腕である、とこの章は述べています。主の御腕はこの状況に対抗するものなのです。これが最初の点です。

 しかし、それ以上のものがあります。主の御腕は、ある新しい状態、あるはっきりと規定された目的のために介入します。その目的とは、イエス・キリストの高揚と立証以下の何ものでもありません。これが二番目の点です。主の御腕はこのためです。しかし、彼の高揚と立証には、十字架がこの状況を片づけることが必要です。もちろん、新約はこれに集約されます。イエスが高く上げられ、立証されたのは、カルバリで状況が片づいたからです。キリストの高揚と立証は力と子孫によることに注意して下さい。この二つがこの区分を結び合わせました。最初に(五十二章十三節)、「私のしもべは高められ、上げられ、非常に高くなる」とあります。次に、この区分の終わりには(五十三章十、十一節)、「彼は自分の子孫を見る。(中略)彼は自分の魂の苦しみを見る」とあります。力をもって「非常に高く」上げられます。子孫は「自分の子孫」――言い換えると、彼の教会――です。

 さて、これはこの問題を私たちにとって非常に身近なものにします。なぜならこれは、キリストの高揚とキリストの立証のために関心を持つべきことを、私たちにまず要求するからです。これが提起されている問題です。各々、「自分は主イエスの高揚と立証のために、どれだけ個人的に本当に関心を持っているのだろう?」と自問しましょう。私的な会話で個人的にこう尋ねられたら、あなたはきっと、「私はそれについて非常に重大な関心を持っています。彼の高揚と立証こそ私の最大の願いであり、何よりもそのために働きたいのです。私たちの人生と働きの目的として、これよりも偉大なものがあるでしょうか?」と言うでしょう。あなたはそう言うにちがいありません。しかし、私たちの関心の証拠となるもの、私たちの関心の大きさを測るものは、十字架を受け入れる覚悟がどれだけあるかであることに、私たちは気づいているでしょうか?十字架の道以外に、主イエスの高揚と立証に至る道はありません。自分が本当に関心を持っているのかどうか、またどれだけ関心を持っているのかは、主にとって不名誉な状況をすべて片づける十字架の働きを、どれだけ自分自身に受け入れる覚悟があるのかによってわかるのです。


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