しかし、神の御前で通用しないのは、それ自身は合法的で正しいものに基づく生活や、先天的あるいは後天的に得た長所や価値に基づく生活だけではありません。自惚れに基づく生活も通用しないのです。これはさらに巧妙なものかもしれません。確かにこれはさらに恐ろしいものです。ひとかどの者になる資格が元々ない人が、「自分はひとかどの者である」と思い込み始め、自尊心を表し、神の家の中で地位を得て、ふんぞりかえって歩き始めたとしましょう。これは主の僕の精神とは何と対照的でしょう!「彼は叫ぶことなく、声を上げることなく、その声をちまたに聞こえさせることもない」(イザヤ四十二・二)。彼には強引で、騒がしい、やかましい所が何もありません。それにもかかわらず、人々は神の家の中ですら地位を主張することができるのです。彼らはやかましく自己を主張し、自分自身に注意を引こうとします。これは神にとって極めて恐るべきことです。

 詩篇作者は言います、「あなたは真実を心のうちに求められます」(詩篇五十一・六)。結局のところ、私たちに関する真実とは何でしょう?神の御前で、あなたや私に関する真実とは何でしょう?なぜなら、神の御前で物事は正しく量られるからです(サムエル上二・三)。使徒は言いました、「愛は高ぶりません」(一コリント十三・四)。高ぶる(puffed up)という句は、空気で一杯で他には何もないことです!愛は「高ぶり」ません。神の御前で人は誇ることはできません。神の御前に出る時、私たちはまったく低くされます。これは常にそうでした――「彼を見た時、私は顔を伏せた」(エゼキエル一・二十八、ダニエル八・十七、黙示録一・十七)。

 ですから、人の価値観と神の価値観は対照的であることがわかります。何という違いでしょう!この損なわれて傷ついた僕は、神の目から見て私たちがいかなる者なのかを私たちに示す神の方法なのです。神の道はとても深遠です。堕落した日から、人は常に自分自身に注意を引くこと、自分でひとかどの者になること、自分のために栄光を得ることを求めてきました。こうしたことにはみな、その核心に高ぶりがあったのです。高ぶりによってサタンは自分の高い地位から落ち、人も自分の高い地位から落ちました。そして、神はこうしたことをみな、主イエスの十字架によって拒否されたのです。「誰に主の御腕は現されるのか?」。誰であろうと高ぶった人に現されることはありません。神聖な委託の原則は次の通りです。「私が目を留める人は、貧しくて霊の砕かれた人である」(イザヤ六十六・二)。「主は高ぶる者を遠くから知られる」(詩篇百三十八・六)。「心高ぶる者はみな、主にとって忌むべきものである」(箴言十六・五)。

 ですから、一面において、主イエスの十字架は私たちの高ぶり、私たちの自尊心をすべて断ち切るものであり、誤った価値観に基づく生活を断ち切るものです。しかし他方、十字架は神の価値観を啓示します。神の価値観とは何でしょう?


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