人の高ぶりは十字架によって空しくされる

 実を言うと、私たちが十字架のもとに来る時、この世が正当な誉れとみなすものですら空っぽにされることになります――まさに下水に流されてしまうのです。タルソのサウロをご覧なさい――彼には何か誇るべきものがあったのではないでしょうか?彼は先祖から受け継いだ長所をすべて私たちに告げます。それらの長所を彼は誕生、しつけ、訓練、習得、成功によって得たのです。彼ははしごの頂点に達しました。主イエスの十字架の前に来た時、彼はそれをどう思ったでしょう?それを単なる「ちりあくた」と呼んだのです!彼にとって、人生はそれに基づくものではまったくありませんでした。それは神の御前に立つ立場として神の法廷では受け入れられないものであることを、彼はとてもよくわかっていました。もしあなたや私が心と霊と真実とにより「神の御子の交わり」――神の僕との交わり――の中に入るなら、このような道で私たちの天然的な価値観は消えていきます。私たちは先天的あるいは後天的に、何か誇るべきものを持っているかもしれませんが、そのようなものがすべて無に帰す地点に達するよう、私たちは定められているのです。とても注意深くしていないなら私たちの霊の命を脅かしかねないものが、それには常に含まれていることがわかります。

 私が述べているのは、もちろん、神の御前における私たちの生活をそのようなものの上に据えることについてです。「そのようなものには何の価値もない」と言っているのではありません。しかし、もし私たちがそれらのものを神の御前に持ち出し、勘案し、重んじるなら、私たちが誰の仲間かは明らかではないでしょうか?私たちが神と肩を並べることはありません。神は人の高ぶりをすべて低くされました。主イエスの十字架により、神は人の栄光をすべて断ち切られたのです。ここに記されているエホバの苦難の僕の絵は、苦悩、ひずみ、恐ろしいもので満ちています。この絵は神の目から見た罪――高ぶり――の結果を示しています。神は人をこのようにご覧になるのです。高ぶりのゆえにこの知らせを受け入れようとしなかったこの人々について、神から見たそのありのままの姿が、十字架にかかっているこの人によって、ここに描写されているのです。彼は私たちの罪、私たちの不法、私たちの違反を身に負われました。私たちであるものがすべて彼の上に置かれました。神から見て、私たちはそのような者なのです。彼がその場所にもたらされたのは、ご自分のせいではなく、私たちのせいでした。これがこの章全体の論旨です。


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